伊呂波太夫近衛前久は姉と弟のような親しい関係のようですね。どうやら伊呂波太夫は近衛家とは浅からぬ縁で幼い頃の前久のオムツを代えていたとか。そして、近衛家には伊呂波太夫のモデルと思われる人物が・・・?

伊呂波太夫のモデルは花屋玉栄

前にも触れました通り伊呂波太夫は架空の人物です。ただ、大河ドラマの場合には主要キャストで完全オリジナルの登場人物が出てくるケースは珍しく、モデルとなった人物がいる場合が多いですね。




そのモデル探しをするのも結構楽しかったりします。




今回の麒麟がくるでも伊呂波太夫の他にも忍者菊丸君、駒ちゃん、そして望月東庵先生のモデルを考察しております。




今回(第22話「京よりの使者」)でどうやらその伊呂波太夫のモデルは明らかになったと思うのです。

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近衛前久との関係

麒麟がくるの第22話で初登場の近衛前久。




近衛前久と伊呂波太夫が親し気にサイコロを振る場面が描かれておりましたね。



大河姫

サイコロ、双六、海の底・・・

伊呂波太夫は時の関白ともタメ口で、いや、寧ろ前久よりも偉そうだった・・・w




その様子に驚く駒に前久は事情を説明していました。




伊呂波太夫は幼い頃に近衛家で過ごしており、生まれたばかりの前久のお世話もしていたとか。まあ、オムツを代えられてしまってはアタマが上がりませんねw




因みに、朝倉義景に十兵衛たちを紹介したときにも、



「近衛の姫に太夫の相手をするように・・・云々」



と、近衛家とは浅からぬ縁がある様子が描かれていましたね。



※関連記事:→麒麟がくる第18話「越前へ」


朝倉義景の二番名の正室が近衛家の姫です。この姫様は絶世の美女だったそうなのですが義景との間に子が出来ず後に離縁となっております。




その後の朝倉家の運命を考えると離縁されてたのは幸いでしたね。

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慶福院花屋玉栄とは?

花屋玉栄は近衛植家の娘。近衛前久にとってはに当たります。




晩年に著した源氏物語の注釈書「花屋抄」が当時から高く評価されておりました。「花屋抄」は文禄3年(1594年)の成立で、この時玉栄は69歳(1526年生)と言われているので、十兵衛(1528年生)とは同年代ですね。




そして、御多分に漏れず前半生は不明な部分が多い




つまり、色々と物語を広げられる余地のある人物と言う事ですね。




余談ですが、伊呂波のある意味では「プロトタイプ」(!)でもある太平記で旅芸人一座の長であった花夜叉様は、楠木正成の妹「卯木」がモデルでしたね。




原作の私本太平記と比べると大河ドラマの卯木はめちゃくちゃ「逞しい」感じでしたがw。



※関連記事:→花夜叉様こと卯木が楠木正成と再会

秀吉との関係も・・・?

花屋玉栄が世に知られるようになったのは前述の通り「花屋抄」が評判を呼んだからですが、その評判は時の天下人である豊臣秀吉まで届くことになります。




秀吉は低い身分から天下人に昇りつめましたが、古典文学や連歌、茶の湯といった文化的教養を学ぶことに貪欲で細川藤孝や千利休といった当代きっての文化人から学んでおりました。




そして、最晩年。




秀吉は源氏物語にも興味を示しており、花屋玉栄から継続的に講義を受けていたと思われます。




というのも、秀吉が写本した「源氏物語のおこり」には花屋玉栄が改めて奥付(写本の終わりを師匠が認める書付)を加えているんですよね。



大河姫

「源氏物語のおこり」とは源氏物語そのものではなくて、解説書のようなもの。

そもそも、近衛前久は関白就任前の秀吉を猶子とするなど近衛家と豊臣家は浅からぬ縁がありますからね。



ただ、そうなると心配なのが我らが十兵衛です・・・。

伊呂波太夫は大活躍か!?近衛家と本能寺!

さて、近衛前久と言えば前述の通り秀吉を猶子としております。豊臣家とは昵懇の間柄であり、玉栄の姪にあたる胤子は寧々に仕えたりもしております。しかし、本能寺の変で近衛家は「大変な目」にあっていたりするのです。

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近衛前久と信長

近衛前久は足利義昭から「永禄の変(足利義輝謀殺)」への関与を疑われれておりました。




義輝の正妻が前久の姉であったことや、義輝を謀殺した三好三人衆と松永等が推した足利義栄を後継将軍として認めたことが災いしたようです。




信長に奉じられた足利義昭が都に復帰すると関白を解任されて都から追放の憂き目にあっております。




その為、信長と義昭の関係が良好な間は前久と信長とは対立する関係にありました。




実際、信長と10年に渡る抗争を繰り広げた本願寺顕如を焚きつけていたとも言われます。




もっとも、前久は信長というよりも義昭や義昭の押しで関白(再任)となった二条晴良への恨みから出た話であり、信長と義昭が対立し義昭が追放されると信長に接近。




かつて、懇意にしていた本願寺顕如と信長の間に立って本願寺開城を斡旋するなど、信長との関係を深めていきます。




本願寺との和議成立に関しては信長の評価も高かったようです。




また、公卿でありながらも馬術・鷹狩にも秀でていたことから信長とも馬が合ったと言われております。信長最後の大仕事である甲州征伐にも同行しております。




ところが・・・運命の本能寺ですね。

近衛前久は本能寺に関与?

天正10年(1582年)本能寺の変。




明智光秀の裏切りにより信長は横死。




前久は信長に弔意を示すため落飾し出家します。この辺りは細川藤孝(幽斎)と同じですね。




ところが・・・。




秀吉が中国大返し、山崎合戦で明智光秀を撃破。




この先、同じ落飾組でも運命が分かれます。



「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」



という噂が広がり、信長の三男信孝や仇討の英雄秀吉からも詰問されてしまいます。




これは後に家康の斡旋で「誤解」であるという事になるのですが・・・果たして本当に誤解だったのでしょうか?

伊呂波太夫が光秀に肩入れ!?

麒麟がくるでの明智光秀がどのような思惑があって本能寺の変を起こすのかは分かりませんが、伊呂波太夫は「本能寺の変」に間違いなく深く関与することになると思います。



大河姫

「間違いなく」「思います」って日本語w

個人的には十兵衛が本能寺の変を決意するのは「朝廷絡みの問題」がきっかけになる気がしているのですが、伊呂波太夫は「弟」である近衛前久の意向もあって十兵衛の決起を支援するのではないかな?




しかし、武運拙く十兵衛は敗れる。




十兵衛が敗れた以上、次は近衛家を守らねばならない。個人的には「近衛家を守る為」秀吉側にも保険をかけていたのではないかと・・・。




そう言えば太平記の花夜叉様も戦で大活躍していたもんなぁ・・・。



大河姫

太平記の感想も絶賛更新中です・・・

以上、伊呂波太夫は近衛前久の姉?モデルは花屋玉栄か?でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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