斉彬は砒素(ヒ素)により暗殺された?三百諸侯の中でも抜きん出た才覚を持ち、阿部正弘をはじめ幕府中枢にも支持者が多かった薩摩藩の太守。しかし、志半ばのは安政5年(1858年)7月にあっけなく亡くなってしまいます。父、島津斉興そして弟の久光による暗殺・砒素(ヒ素)による毒殺が疑われていますが何故疑われたのか?
斉彬と父斉興の関係
島津斉彬の死について「暗殺説」が出てくるのはその死があまりにも突然でありタイミングが良すぎること、そして、斉彬が藩主となった経緯も父斉興と禍根を残すような形で家督を継承している事が挙げられます。
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お由羅騒動
島津斉彬は当時としては異例の40歳を超えて家督を継承しています。詳細は誌幅がないので「お由羅騒動」の記事の譲りますが、斉興は薩摩藩を「借金漬け」にした祖父の重豪と同じく「蘭癖」であった斉彬の藩主となれれば、薩摩藩が再び破綻状態となる事を怖れ、三男(次男は池田家へ養子となった池田斉敏)の久光への禅譲を考えたと言われます。
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ただ、将軍へのお目見えも済まし、御三卿の一橋家から妻も娶っている斉彬を廃嫡する事も出来ずそれならばと斉彬が40を超えても家督を譲りませんでした。
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当時、斉彬の名望は三百諸侯随一とも言われ、時の老中首座阿部正弘や共に「幕末の四賢侯」とも評された松平春嶽や伊達宗城の後援もありなんとか家督を継承する事になります。
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その際、薩摩藩の救世主とも言うべき「調所広郷」を自死に追いやる形となるなど、家督を継承したもののただでさえ「険悪」であった斉興とはさらに「険悪」な関係となってしまいます。
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※関連記事:→お由羅騒動と近思録崩れ
※関連記事:→調所広郷と蘭癖島津重豪の関係は?
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では、やはり斉興はその恨みを忘れえず、斉彬を暗殺したのでしょうか?次に暗殺説の根拠となっている説を見て行きたいと思います。
暗殺説の理由
斉彬は家督を継承するにあたり「お由羅騒動」というある意味では「薩摩藩らしい」血みどろの抗争経ています。この「お由羅騒動」のお由羅とは斉興の側室で久光の父です。確かに、お由羅派が斉彬を「呪詛」をしていたという噂はありました。個人的には「呪詛」位はしていたかもと思いますが・・・。しかし、暗殺や毒殺はどうでしょうか?まず「暗殺・毒殺」説の理由について見て行きたいと思います。
毒殺説には「砒素」による毒殺が有力説として語られています。
砒素(ヒ素)による暗殺か?
前述の通り斉彬の暗殺については砒素(ヒ素)による毒殺が疑われています。砒素による毒殺というと20世紀末の衝撃的な事件を思い起こされる人も多いと思いますが、欧州では暗殺の手段として砒素による毒殺は割と一般的です。有名どころではかのナポレオン・ボナパルトも砒素による暗殺が囁かれています。
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斉彬は砒素により毒殺されたのでしょうか。
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斉彬の死因は当時「コレラ」と診断されています。砒素による毒殺説の根拠としてはこれを当時流行していた「コレラ」に似せて殺害しようとしたと語られます。確かに、コレラとヒ素による症状は激しい嘔吐など共通点も多く、欧州で砒素が毒殺の花形とされたのは、コレラと症状が似ているからです。
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ただ、この根拠には少々無理があります。
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砒素による症状(コレラも)は激しい嘔吐があるのですが、現存する斉彬の「カルテ」にはそのような記載はありません。
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さらに、斉彬は「あっけなく」亡くなったとはいえ1週間程闘病しています。砒素による症状はかなり激しく亡くなるまでに1週間もかかる事はありません。
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また、中には斉彬毒殺は長期戦であり「徐々に砒素を盛って」衰弱する事を狙っていたという説もあるのですが、それですと、斉彬が死の直前に夏の暑い盛りに自ら馬を駆り洋式調練に参加している事の説明がつきません。
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そもそも、「カルテ」はコレラをであったと書かれていますが、そもそもそれ自体も「怪しい」と思われます。砒素よる毒殺説には少々無理があるように思われます。
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続いて、「死因」ではなく斉彬を取り巻く人間関係や家族の夭折を「暗殺説」の根拠としているものもあります。
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相次いで亡くなる息子達
斉彬には御三卿である一橋家からの正室の他ドラマ等でも斉彬を看取る事になる喜久姫をはじめ4人の側室がいたと伝わります。
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そして、その4人の側室の間に6人の男子がいます。
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- 長男「菊三郎」
- 次男「寛之助」
- 三男「盛之進」
- 四男「篤之助」
- 五男「寛之助」
- 六男「哲丸」
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しかし、その悉くが成人を待たずに亡くなっています。当時から斉彬の名望は薩摩藩士の間でも知られており斉彬の藩主就任は待望されていました。そのような中で中々家督を譲らない藩主斉興、そして次々と斉彬襲う不幸。
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四男の篤之助の死はお由羅騒動の引き金の一つでもあります。
(斉彬派はお由羅の呪詛・毒殺を疑った)
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長男菊三郎から四男の篤之助までは家督継承前に亡くなり、そして、五男寛之助、そして六男の哲丸も成人を待たずに亡くなります。
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「斉彬はやはり暗殺された」
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しかし、この論理は少々苦しいと思います。というのは、ここまで次々と「息子を暗殺されるほど斉彬は無警戒だった」のでしょうか?仮に無警戒であるのであれば、もっと早い段階で斉彬を暗殺出来たはずです。
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そして、さらにもう一つ。
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亡くなっているのは「息子」だけではないのです。
亡くなったのは息子だけではない
前述の通り確かに六人の息子達は次々と亡くなってはいますが亡くなったのは「息子」だけではないんですね。
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斉彬には、
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- 長女「澄姫」
- 次女「邦姫」
- 三女「暐姫」
- 四女「典姫」
- 五女「寧姫」
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五人の女子がありましたが、長女、次女は夭折、三女と五女は後に島津忠義(久光の子)に嫁ぎますが難産で死亡。結局、成人まで生き残り成長したのは四女の典姫だけなんですね。
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何が言いたいのか?
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つまり、斉彬の子は何れも短命なんですね。もし、暗殺(毒殺)説を取るのであれば女子まで暗殺(毒殺)をする必要はないと思います。また、もし無差別(誰に毒を盛ったか分からない)なのであれば斉彬や側室たちも毒殺されていた可能性が高い。
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さらに、寛之助が亡くなった段階で斉彬に男子はおらず、その際に家督については「忠義を養子とする」という案を既に提案していたとも言われます。
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「次期将軍には英傑・人望・年長」
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そう。
寛之助が亡くなった時既に齢50に差し掛かろうとしていた斉彬は間違いなく「次」に薩摩を誰に任せるのかを考えます。その時、これから誕生する幼子に薩摩77万石を任せようとは決して思わないでしょう。
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実際、亡くなる直前に斉彬自ら「次は忠義(久光の子)」と定めています。その状況で「哲丸」を暗殺する必然性もお由羅派や斉興にはないと思います。
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斉彬の家では子育て方法になんらかの問題があった可能性も指摘されているそうです。
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余談ですが、久光の子である島津忠義、久治、珍彦、忠欽、忠済等は皆成人をしています。そして、斉彬の血は唯一成人して子供産んだ珍彦の妻である典姫を通して島津家の諸分家に伝わります。
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以上の理由から「斉彬の息子達の死」を暗殺や毒殺の根拠とするのはとても苦しいと思います。
斉彬の死の時期
斉彬の死は斉彬が兵を率いて上洛を決断し、その調練を行った後数日後になります。この頃西郷は京都で斉彬率いる薩摩兵児3000の受入準備に奔走しております。この時、誰もが斉彬が亡くなってしまうなどとは考えていませんでした。
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この「時期」が斉彬が暗殺・毒殺された理由の一つとされる事があります。
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つまり、このまま兵を率いて上洛すれば幕府の怒りを買い薩摩藩が潰される。それを避けるために、率兵上京を止めるための暗殺。
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この場合、久光が「暗殺犯」であると可能性は排除されます。この「率兵上京」の調練には久光も参加しており、また久光は斉彬の意志を継ぎ後に自らそれを実行しています。
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「卒兵上京」等という暴挙を怖れ斉彬を暗殺した犯人ではないかとされるのは父斉興です。
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ただ、この時既に斉興は隠居して7年です。
そして住まいは江戸。
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薩摩から江戸までは当時40日~50日かかります。
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仮に、斉彬を暗殺する指令を出したとしても(早馬を乗り継げば多少時短は出来るでしょうが)タイムリーに、暗殺・毒殺をするのは至難の業というかほぼ不可能です。
(将軍継嗣が紀州慶福と決定(6月20日)してから斉彬が亡くなる(7月16日)まで一ヶ月もない・・・)
久光と西郷の険悪な関係
作家の海音寺潮五郎は当初は斉彬の死を「病死」と考えていましたが後に「暗殺・毒殺」に見立てを変えています。これも斉彬暗殺説が広く知られれるようになった理由の一つではないかと思います。
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そして「斉彬暗殺」に関し後に維新の立役者となる西郷隆盛と島津久光の険悪な関係を指摘します。
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久光と西郷が当初は険悪な関係であった事は疑いありません。沖永良部島に流されていた西郷隆盛は大久保の働きかけて一度帰国を許されますが、久光とは折り合いが悪く再度島流しとなっています。
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また、維新後も久光と西郷の関係は微妙であった事も間違いありません。
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ただ、維新後の久光は維新志士全般と(廃藩置県以降は特に)「折り合いが悪くなった」とも言えます。どちらかと言えば、というか少なくとも維新後は間違いなく西郷が久光を嫌ったのではなく、久光が西郷、いや自身が取り立てた大久保も、「自分を裏切った」と恨んだのだと思います。
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むしろ、西郷に至っては久光に対してはかなり「気を遣って」いると思います。また、後年は久光も西郷の事を好意的に見ていた節があり、一方で可愛がってきた大久保には悪感情を抱いていたと思われます。
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これは余談ですが西郷は当代きっての開明藩主島津斉彬の薫陶を受けてはいますが、写真嫌いであったりと「西洋の文物」にはその有用性を認めながらも好まない部分があったように感じます。
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その辺りは意外と「久光」に近い感性を持っている気もします。
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私は以上のような観点から考えて、島津斉彬は暗殺された訳ではないのではないと思います。
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ではいったい幕末に現れた三百諸侯随一の開明藩主は何故亡くなったのか??
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私は「開明藩主」だったからこそではないかと考えています。
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以上、島津斉彬は砒素で暗殺された?毒殺の犯人は斉興?久光?!でございます。続いては斉彬の「死因」について考えて行きたいと思います。

今宵は此処までに致します。
※参考:「明治維新という過ち( 毎日ワンズ)」「命もいらず名もいらず(ワック)」「薬で読み解く江戸の事件誌(東洋経済新報社)」「大河ドラマ翔ぶが如く」等
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