宝島事件と宝島の場所等について。日本近海に出没をする異国船。宝島事件の前には多くの犠牲を出した「露寇事件(文化露寇)」長崎では英国軍船「フェートン号」による出島威嚇。鎖国体制の動揺と薩摩藩での宝島事件に至る背景や宝島の地図について。薩英戦争の39年前の衝突と異国船打払令、後の薪水給与令についても。

鎖国体制の動揺

織豊政権時には割と積極的に門戸を開いていましたが、天正15年(1587年)の秀吉による「禁教令」を皮切りに、徐々に外国人の往来は禁止する方向へと動きます。そして、「大阪の陣」が終わり名実ともに徳川幕府による治世が確率されると元和2年(1616年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する所謂「鎖国」が始まります。




しかし、大航海時代を経て造船技術・遠洋航海の技術が発達した欧州列強は富を求めてあらゆる場所へ現れ互いに争うように。18世紀に入ると、欧州大陸での戦争はそのまま海外の植民も巻き込んだ世界戦争の様相を呈し始めます。




因みに、「七年戦争(1754年-1763年)」はオーストリア帝国とプロイセンの戦いですが、そこに英仏露も其々の思惑から参戦し、印度、西アフリカ、南北アメリカでの戦いがあり、これを以て「第零次世界大戦」「プレ世界大戦」とも評価されます。



「元和偃武」
※「元和」改元を以て「偃武(武器を収める)」こと



日本もまたその影響に無関係ではいられなくなります。元和以収めた「武器」を取らなければならない事態が刻一刻と近づいています。

フェートン号事件

1789年に始まったフランス革命はヨーロッパ大陸の勢力図を一変します。列強の干渉をその類まれなる才覚で跳ね除けたナポレオン・ボナパルト。トラファルガーの戦い(1805年)での敗北で英国上陸作戦は実現しなかったものの、ヨーロッパ大陸はナポレオンの手に落ちる事になります。




かつては、イギリス・スペインと海上覇権を争ったオランダも当然例外ではありません。事実上の君主であったオランダ総督オラニエ公は革命戦争の余波でイギリスへと亡命。オランダ本国とその海上帝国は「バタヴィア共和国-ホラント王国(仏影響下の政権)」に引き継がれます。しかし、イギリスへ亡命したオラニエ公は植民地に関してイギリスに接収を依頼。




トラファルガーの戦いの影響もあり制海権はイギリスが握っている。イギリスはその海軍力を持って平戸を管轄する蘭印にも圧力をかけます。その一端が現れたのは「フェートン号事件」です。




鎖国時代を通じてオランダだけが長崎の平戸を通して貿易を許されていましたが、文化5年(1808年)8月15日にオランダ国旗を掲げて偽装したイギリス軍艦フェートン号が長崎港内に侵入。何も知らないオランダ人商館員2名が出迎えに入った所を拉致監禁され水と食糧を要求。もし、要求が容れられない場合には湾内の和船を焼き、港に砲撃を加えると威嚇。




この事件はフェートン号の要求に屈して水と食糧を提供したことで無事オランダ商館員2名も解放されます。ただ、この事件の結果本来警備のために用意されているはずの人員も武装も実態はなかった(警備は鍋島藩・福岡藩の役割だったが与えられていた警備を怠っていた)事が明らかになります。長崎奉行松平康英はむざむざと異国船の要求に屈し、戦う事も出来なかった事の責任を取り自刃しています。



「一身の恥辱は兎も角も、此場に至りて天下の御恥辱を異国へあらわし候段、不調法の仕合に御座候。御断として切腹仕候」



なんだか、昭和時代を彷彿させる出来事ですね。書類上は存在する師団や野砲、高射砲。しかし実態は。



「全て、欠!欠!!欠!!!(山本七平)」



九州長崎での事件とほぼ時を同じくして、日本の北端にはロシアの影が近づきつつありました。

文化露寇

黒船来航は嘉永6年(1853年)の事ですがその半世紀以上も前、寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマンが根室へと来航。ラクスマンは「おろしや国酔夢譚」で有名な大黒屋光太夫を送り届け、時のロシア皇帝エカチェリーナ2世の通商を求める国書を提出。




幕府は長崎への入港許可と通商要求には応じるようなそぶりを見せて、ラクスマンを帰国させます。(ラクスマンは長崎入港許可の信牌を渡されるもそのまま帰国する)




幕府は北方の守りを固めるべく蝦夷地を天領とするなど防備を固めますが残念ながら充分なものとは言えませんでした。




そして、文化元年(1804年)長崎に全権大使レザノフが来航。12年前に約した「通商開始」を求めますが幕府はこれを拒絶。レザノフはその場は引き返しますが、



「武力を背景に威嚇するしかない」



と考え部下のヴォストフ大尉を軍艦と共に差し向けます。ヴォストフは九春古丹(クシュンコタン注:ロシア名コルサコフ)の松前藩会所を襲撃。翌年には軍艦2隻で来航し択捉島内の内保を襲撃して番人を捕虜とし、会所の置かれた紗那にも兵を差し向けると掠奪の上神社・番屋・会所に放火。宗谷付近では日本商船を次々と沈め積荷を強奪する海賊行為を行います。



※GoogleMapを元に管理人加工



当時の幕府には為す術なく一方的な敗北となり紗那を放棄。




この事件はレザノフの死、そしてロシア皇帝アレクサンドル1世の撤収命令により以降は小康状態となります。ただ、悲劇はこれに留まりません。幕名により津軽藩士等数百名が極寒の知床半島へと派遣されますが、十分な装備もなく、さらに極度の栄養失調で100名近くが無くなるという所謂「津軽藩士殉難事件」が起きています。




この時期に戦が拡大していれば・・・。100年早い日露戦争もあり得たかもしれません。

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宝島事件

宝島事件は幕府が「文化露寇」「フェートン号事件」で異国の脅威の存在を認識してから暫くの後、文政7年(1824年)8月に起こります。




薩摩藩としては初の列強との戦争となる「薩英戦争」に先立つこと39年前。ここで、小さな戦いが起こります。

宝島の場所

さて、宝島事件の舞台となったのは「宝島」です。現在はトカラ列島の有人島では最南端の島になります。余談ですが、この宝島にはスコットランド出身の海賊「キャプテン・キッド」の財宝が眠っているという伝説があります。



※GoogleMapを元に管理人加工



ご覧の通り、後に西郷が流される沖永良部島や徳之島は勿論、大久保の父次右衛門や俊寛が流された鬼界ヶ島と比べても鹿児島寄りに位置します。

イギリス船員との戦闘と顛末

ここに現れたイギリス船は、フェートン号や文化露寇のきっかけとなったレザノフ座乗の軍船ではなく「捕鯨船」であったと思われます。




イギリス船は食糧の調達のために上陸したようで「」を譲って欲しいと要求したと伝わります。




当時、宝島には守備兵と言えるような要員は配置されておらず、数名の下級藩士と戦国以来の火縄銃が7丁ほど準備されているだけです。




当初は身振り手振りと砂浜に絵を描くなどして対話を図るものの、薩摩側の「野菜や水は渡すが牛は渡せない」という回答に納得せず、一度、交渉を切り上げて後、艦砲射撃で威嚇の後、武装した20名程の船員で無理やり牛を強奪するという挙に出ます。当時、下級藩士と言えども「フェートン号事件」や「文化露寇」の件は当然聞いています。




ただ、幸にも今回宝島へ上陸したのは「軍隊」ではありません。




牛を奪い直ぐに引き上げれば命はあったでしょう。しかし、宝島内で掠奪を考えたか島の奥深くまで入ったところを狙撃され船長と思しき人物が射殺されると、残りの船員達は雲の子を散らすように逃げていきます。




撃ったのはたまたまこの時所用で薩摩から派遣されていた吉村九助という下級藩士です。これも、たまたま九助は鉄砲の扱いに秀でていました。




宝島内はイギリス船の報復に怯えます。結局、その後そのイギリス船は数日間島周辺で様子を伺っていましたが再び上陸をする事はありませんでした。




人命の被害はなく、被害は牛が3頭。船長と思しき遺骸は塩漬けの後長崎で見分の後に埋葬されます。




この事件は約1月の後に幕閣にも報告される事となります。また、同じ年に「大津浜事件(北茨城市大津町、当時水戸藩領)」にイギリス人が上陸しましたが、こちらは領民と物々交換を行うなど和やかであったと伝わります。ただ、この事件をきっかけに、翌文政8年(1825年)2月に「異国船打払令」が発令されます。




異国船打払令」が施行の後、今度は反対に漂流民を送り届けるためにやってきたアメリカ船「モリソン号」が砲撃をされ追い返されるという事件も起きていますが、清国がアヘン戦争に敗れたという情報を得た幕府が「薪水給与令(1842年)」に改めるまで続きます。




以上、「宝島事件と薩摩藩!場所は何処?英国と初の戦い?!」でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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