孝明天皇は二度暗殺された?慶応2年(1867年)12月、天然痘により36歳で崩御。当時から岩倉具視等による暗殺・砒素による毒殺説など、その突然すぎる「死」には謀略の影が噂されてきました。確かに「孝明天皇の死」は倒幕派にとっては「僥倖」であり、幕府にとっては「痛恨事」。孝明天皇の毒殺・暗殺を疑われる岩倉具視とその背景について。

孝明天皇と幕府

煕宮(ひろのみや)後の孝明天皇は天保2年(1831年)父である仁孝天皇と母である正親町雅子の第四皇子として生まれます。3人の兄がいましたが二人の兄は煕宮誕生前に亡くなっており、第三皇子も煕宮誕生に前後して亡くなっています。




傳役(養育係)は近衛忠煕(1808-1898)。後に「一橋派」として成就院月照と共に島津斉彬や西郷隆盛を朝廷側から支援した人物としても知られています。



→西郷と月照の信頼関係の背景


弘化3年(1846年)3月、父であり先帝でもある仁孝天皇崩御により践祚。15歳で121代天皇に即位。

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孝明天皇が保守的なワケ

幕末というのは一般的には「黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)」までを指します。



「激動の幕末を駆け抜け云々・・・」



私達は「徳川幕府が終焉し明治政府が成立」する事を知っていますね。




しかし、当時の人々はどうでしょうか?




200年以上も続いてきた幕府が滅びる等とはとても考えられなかったはずです。勿論、いつの時代も「革命(政府転覆)」を志す人はいるものですがあくまでそれは少数派。
(高度成長昭和元禄を謳歌していた時代でも革命思考の人はいた・・・)




後に倒幕に舵を切る薩摩藩や公家の岩倉具視にしても(長州藩は除く・・・)、「倒幕派」となるのはホント、幕末も幕末の慶応年間に入ってから。岩倉具視なんかは「公武合体派」であった事を理由に糾弾をされている位ですからね。



→岩倉具視と孝明天皇の関係


最近は「明治維新を批判的に」論評する議論「明治維新という過ち」も見られるようになっていますが、当時を生きていた人々にとって「倒幕」も「維新」も必然ではないんですね。




現代的に考えてみましょう。




今の政治・社会に行き詰まりを感じている人は多いとは思います。少子高齢化、人口減少、非正規増大、失われた云十年、階級による分断、世代による分断、中華帝国の勃興、軍事的制約、防衛は外国頼み、残業不払い、出産、育児、子育て・・・。




まさか20年後に議院内閣制が大統領制に代わって、さらに10年後には大統領がナポレオン三世よろしく「180年振りに征夷大将軍」に任命されて「幕府」が開かれ民主主義は終わったけど何故か地方分権は鬼進んでいて東京は「関東管領」が治めている・・・。




なんて、想像できないと思います。




いや、何が言いたいのかと言うと、孝明天皇は決して「頑迷な保守主義者」ではないと思います。




誰しも産まれた時代、生活した時代からは逃れる事は出来ません。




個人的には養育係を務めた「近衛忠煕」の影響も大きかったのではないかと思います。改革の必要性は認めつつも、あくまで「幕府を改革強化する」事こそがこの国難を乗り切る唯一の手段であると。

孝明天皇暗殺説の背景

孝明天皇が亡くなったのは慶応2年12月(1867年1月30日)。もうこのタイミングで亡くなってしまっては「暗殺説」出てくるのは致し方がないと思います。孝明天皇は一橋慶喜、そして松平容保を特に信頼していました。皮肉な話ですが、「倒幕派」にとって最も厄介な「敵」が孝明天皇という訳です。




余談ですけど、暗殺説については「るろうに剣心」の影響もちょっとある気がするのですが如何でしょうか?



「表に出してはいけない暗殺がある」



大久保と剣心が再会する場面。この言葉で私が想像したのは「孝明天皇暗殺」だったんですよね。




さて、恐らく孝明天皇が存命であれば「倒幕の密勅」なんかは間違いなく出ない訳ですから、明治維新が為されるとしても、少なくとも我々の知っている「明治維新」はなかったでしょう。




ここでは孝明天皇の容態や当時の政治情勢から考察してみます。孝明天皇は暗殺・毒殺されたのか?犯人はやはり岩倉か・・・?いや意外なあの人物?

孝明天皇崩御直前の政治情勢

薩長同盟の成立と第二次長州征伐の幕府側の大敗。しかし、「公武合体(あくまで政治・攘夷の中心は幕府)」と考える孝明天皇の考えが揺らぐ事はありませんでした。一方、朝廷内では「八月十八日政変」で追放された公家を赦免すべしの声が大きくなります。




しかし。




孝明天皇は相変わらず幕府への信頼が厚く、これを認めませんでした。これに対して不満を爆発させた尊皇派公家が所謂、



「廷臣二十二卿列参事件」



を起こします。
かつて、岩倉具視もその中心人物となっていた「廷臣八十八卿列参事件」を思い起こさせますね。前回はその「廷臣八十八卿」の意見は容れられましたが、今回二十二卿は孝明天皇から謹慎の処分が下されます。




孝明天皇の幕府(特に松平容保)への信頼が厚く、また、それ以上に「長州への悪感情」が強かったようです。まあ、有史以来初めて御所に発砲したワケですからその御気持ちは十分理解できますが・・・。




この事件があったのが、




慶応2年(1866年)8月30日




孝明天皇の崩御の約4ヶ月前。薩長を中心とする「倒幕派」にとって孝明天皇は排除しなければならない最大の障壁と認識されるに至ったのではないでしょうか。

孝明天皇の容態

孝明天皇は一般的には「天然痘で亡くなった」とされています。孝明天皇が「天然痘に罹患した」という部分については「暗殺肯定派・否定派」共に見解の相違はありません。




ただ、孝明天皇の「容態の変化」があまりに急激であったため件の暗殺説が当時の政治情勢と相まって信憑性を帯びています。孝明天皇は時の天皇であり、当然当時の最高水準の医療が施されたはずです。また、その容態については主治医を務めた伊良子光順の「拝診日記(容態書)」に詳しく記載されています。



  • 慶応2年12月12日
  • 発熱

  • 13日
  • 食欲がなく高熱が続き頭痛を訴える。眠れずにうわ言を漏らす

  • 14日
  • 山本典薬大允が診察。痘瘡(天然痘)の疑いあり。下剤を投与するものの便通無し。

  • 15日
  • 高熱が続く。再び下剤投与。便通有り

  • 16日
  • 高熱が続く。石段の見解は「痘瘡(天然痘)」で一致。
    確定診断は再度拝診の上決定となる。

  • 17日
  • 医師団15名は「痘瘡」との確定診断を出す。高階典薬少允が薬を処方。京都守護職・所司代にもその旨が伝えられる。尚、この時痘瘡の「一般的な病状の進行と回復」について意見書も伝えられる。
    周囲の動揺を鎮めるためか?

  • 18日
  • 引き続き解熱剤等を処方。

  • 19日
  • 食欲が少々回復(粥を少々食する)。また便通もあり回復の兆候が見られる事が報告されている。
    「御安睡被為遊(孝明天皇紀)」

  • 20日
  • 前日よりも回復が顕著。食欲もあり安眠する。
    「益御御機嫌能被為成候(孝明天皇紀)」

  • 21日
  • 熟睡。水疱化した痘から排膿し始め、経過順調。

  • 22日
  • 顔や手足の腫れも引いて、熱はほとんど平熱近くにあった。

  • 23日
  • 食欲も有り。葛根、団子、粥、大根おろしを食する。痘疱は乾燥しかさぶたが出来始める。
    「至極静謐二被為成候(孝明天皇紀)」

  • 24日
  • 夜再び御発熱。嘔吐複数。度々意識不明。夜中御排便三度。

  • 25日
  • ご危篤。御九穴(両眼、両耳、口、鼻腔、肛門)より御脱血。苦悶の形相で苦しんだ後崩御。享年36歳



24日に容態が激変し、翌日には「九穴より御出血」の上苦しみながら亡くなっている。確かに天然痘には「重症」の場合には「出血性の症状」を見せる事があります。



「孝明天皇は重症の天然痘だった」



と、すれば一応説明は出来なくもありません。ただ、「重症」の場合にはそもそも「回復」の兆候等は見せる事なく、症状が悪化の一途を辿った上で体力免疫力を奪われた上での「出血性の症状」であり、回復途上にあった孝明天皇の症状が「劇的」に変化する事はあり得ません。




私は孝明天皇の暗殺は濃厚だと思います。




一方で疑問も残ります。




当時の政治情勢を考えればこの時期の「孝明天皇崩御」は間違いなく「疑いの目」を向けられます。結果的には倒幕派にとって「邪魔」であった孝明天皇の排除には成功していますが、



「畏れ多くも御上を弑逆奉るとは!」



流石に、引く、実行犯には「詰腹を切らされる」可能性もあった。




長州藩は、



「形が足利尊氏でも心が楠木正成なら・・・」



ってう謎の理論(理論なのかな?)を信奉していましたけど、足利尊氏だって後醍醐天皇を「弑逆」はしていない。



「形が明智光秀でも心が・・・」



という事なんでしょうか・・・?

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孝明天皇は二度暗殺された

孝明天皇が「痘瘡(天然痘)」に罹患したのは間違いありません。暗殺肯定派は病を奇禍として孝明天皇を毒殺したと主張し、一方で暗殺否定派は「痘瘡の重症化」によって亡くなったと主張しています。



「痘瘡(天然痘)」



に罹患した事がそもそも「暗殺の手始め」だとしたら?




痘瘡(天然痘)は1980年5月、WHOにより根絶宣言が成されいますが、天然痘の治療に関しては既に18世紀末にはジェンナーによる「種痘」が確立さており、適切な処置をすれば必ずしも死に至る病ではありませんでした。
(ジェンナーの種痘の前にも「人痘法」のワクチン接種で列強ではかなり防疫されていた)




一方で、「ワクチン」を受けていない人間にとって天然痘は脅威です。勿論、西洋医学を毛嫌いしていた孝明天皇が種痘を受けている訳もありません。




当時世界の海で跳梁跋扈していた英国は、ポンティアック戦争(インディアン戦争)で天然痘間者の利用した布をインディアンへ送るなど、「初期細菌戦」といえるような暗殺を行っています。列強、特に英国と関係の深かった倒幕派がその事を知り利用したのではないでしょうか。




温室育ちで外界との接点も少ない(免疫力も弱いと思われる)孝明天皇が痘瘡に罹患すれば?




痘瘡に罹患しお隠れになられた。




実際、もし痘瘡に罹患した孝明天皇がそのまま医師団の治療の甲斐なく亡くなっていれば、ここまで「暗殺説」が語られる事はなかったでしょう。




しかし、孝明天皇は思わぬ回復を見せます。




これには暗殺派は大きな動揺をしたと思われます。




もし、痘瘡から回復してしまえば免疫が出来てしまうため、もう二度とこの方法での暗殺は出来ません。なりふり構っていられる場合ではない。




そこで、完全に回復する前に(痘瘡の罹患による崩御が説得力を失わないうちに)暗殺を実行したのではないでしょうか。




ではその毒物は何か?



→島津斉彬は砒素により暗殺された?


「劇的」に症状がでている事からその毒物については「砒素」が疑われています。実際、「伊良子光順」の子孫である伊良子光孝(子孫も医師)が「拝診日記」を公開した際にも、



「死因は砒素系毒物によるものである可能性が濃厚」



と、後書きに記載をしています。

孝明天皇暗殺犯は岩倉か?

では孝明天皇が砒素により「暗殺・毒殺」されたとして実行犯はいったい?岩倉具視に関しては当時から疑いの目が向けられていました。




「公武合体派」から「倒幕派」に鞍替えをしてからは「暗殺の畏れ」はなくなったので京へは戻ってはいますが蟄居中の身です。
(正式に岩倉が赦免されるのは孝明天皇崩御の後)




つまり、孝明天皇を暗殺しようにもそもそも御所に入る事はまだ出来ないのですが、岩倉具視には宮中に堀河紀子という妹がおります。この堀河紀子は孝明天皇の女官であり皇女をもうけています。この事が岩倉に疑いの目が向けられる理由ですね。




ところが・・・。




紀子もまた謹慎処分を受けていました。




岩倉具視が「条約勅許」問題に端を発する「大獄の嵐」を乗り切り、和宮降嫁での活躍については妹が「孝明天皇の寵愛を受けている」という影響も大きかったと思います。しかし、それは一方で「八月十八日政変」の前の尊皇派過激公卿から目を付けられる事になります。



「宮中に跋扈する四奸二嬪」



として、槍玉に上がった「二嬪」の1人はこの堀河紀子なんですね。彼女もまた、岩倉具視と同じく、文久年間に宮中からは出されてしまっています。
(一応、四奸は岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直)




また、岩倉具視の息子である岩倉具定が宮中にいたため、岩倉具定こそが暗殺犯という説もあるのですが・・・。




前述の、



「廷臣二十二卿列参事件」



に参加してしまい、謹慎処分を受けてしまっております。つまり、上記二人には少なくとも暗殺を「実行」する事は難しいと思われます。

孝明天皇暗殺の真相は・・・

孝明天皇の死については何者かの「暗殺」があった事は濃厚ではありますが、その実行犯を特定するのは流石に難しそうです。




また、実際宮中で「暗殺・毒殺実行が可能な程近くに」いたとしても、岩倉具視の妹である紀子(息子具定も)もし露見するれは、岩倉具視自身、いや一族郎党悉く生きて行くことは出来ないでしょう。




岩倉具視程の人間が敢えてそのような「危険」を犯すとは考え難いと思います。




では誰がどのように?




宮中とは言え孝明天皇に近づく人間が身分や出自が明かな人間だけだったかというと、決してそのような事はないと思うのですよね。




当時の文化として美しい少年、



「寵童」



を、夜な夜なお召しになる事もあったのではないでしょうか。また、毒を盛るだけであれば「食事」を抑える事が出来れば十分に可能性はあると思います。そして、事が万が一露見すれば「トカゲのしっぽ切り」が出来るし、いや、成功していても・・・?




「岩倉具視個人」というよりも「暗殺犯チーム」が「廷臣二十二卿列参事件」以降時間をかけて準備をしたのではないでしょうか。




1人よりも信頼が出来る数人の方が「保険」が効きますからね。

孝明天皇暗殺の異説

孝明天皇の砒素による毒殺や暗殺説自体が現在(2018年8月)は「異説」なんですけど、その異説の中の異説という事でいくつか面白い説もありますのでご紹介したいと思います。

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毒物は昆虫!?

孝明天皇は「九穴から出血」し苦悶の形相で崩御しています。孝明天皇の毒殺説によると「砒素」が最も疑われているのですが、砒素は出血性の毒ではないそうなんですね。




そこで、「斑猫(はんみょう)」が用いられたのではという説があります。
(薬で読み解く江戸の事件史より)




斑猫は毒物というよりも「薬」なのですが、少量を用いれば薬になるのですが、これを大量に摂取すると孝明天皇の劇的な症状に符号する部分が多いとか。




確かに「薬」として使用するものであれば例え大量に持っていても怪しまれる事はない。




現在のでも不審死を調べていると同じような例(調べてみるとある薬が大量に減っていた!)みたいな話はよく聞きます。
・・・ドラマの中が多いですが・・・!

暗殺犯は倒幕派ではなく慶喜!?

此処まで来るともはや「コナン君」や「右京さん」みたいな話になりますね。




徳川慶喜、そして松平容保は孝明天皇の御信任を一手に集めていました。




しかし。




どうにもならない問題もあります。



「神戸開港問題」



ですね。




安政五カ国条約に関しては勅許を与えたものの、都に近い神戸の開港に関してはさしもの徳川慶喜も勅許を得られなかった。




進退窮まった慶喜は倒幕派が暗殺を企んでいるのを黙殺し、そしてそれが失敗すると・・・



一番犯人から遠く捜査線上に一度も浮かんだ事がない者こそ一番怪しい。




以上、孝明天皇は毒殺された?岩倉具視が暗殺の犯人?でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

→無料視聴可能な大河!2022年1月22日更新

→孝明天皇と岩倉具視の関係

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