調所広郷とその改革について。500万両と言われる借金を抱えて財政破綻状態にあった薩摩。その薩摩を「立て直し」明治維新の礎を創ったとも言われる調所広郷です。彼には何故改革が可能だったのか?そのヒントは「重豪の蘭癖」にある。「蘭癖の重豪」に見いだされ「蘭癖の斉彬」に追い詰められる。「蘭癖により活き、蘭癖により死ぬ」その運命の皮肉。

調所広郷の来歴

調所広郷は後に家老にまで累進していますが、城下士であり出身は西郷や大久保と同じ「御小姓与」そして近所の出身だったと言われます。因みに、西郷や大久保は勿論、高い身分とは言えませんが「城下士の御小姓与」つまり城の中の身分です。「御小姓与」は3000家程度あったのですが、薩摩藩では郷士(半士半農)のような家を含めると40,000程度の家があったので上位10%程度の身分と言えます。
(イメージで言いますと、警部補よりは上で警部より下といった感じでしょうか?)

江戸留学で「蘭癖」重豪に見いだされる

調所広郷は川崎主右衛門基明の息子として産まれますが、後に同じく城下士の調所清悦の養子となります。当時は「役職(仕事)」が家に紐づいている事もあり同じ身分間の養子縁組は頻繁に行われています。
茶道職として出仕しすると寛政10年(1798年)に江戸へ留学。当時、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用されます。



※重豪以降の歴代薩摩藩主(大河姫作成)



薩摩藩の借金はこの重豪の時代に爆増します。ただ、重豪のみに責任を押し付けるのはやや酷な気もしますが・・・。




まあ、それは別の機会にお話します。




当時は重豪の息子斉宣が第9代藩主ではありましたが、実権は暫く重豪が握っています。広郷が江戸へ来た頃には流石に実権は手放も手放していたのですが、藩主斉宣(緊縮財政・借金返済)とご隠居重豪(華美な生活と蘭癖)の反目が「近思録崩れ」というお家騒動に。



※関連記事:※→重豪と宝暦治水事件。お由羅騒動の原点「近思録崩れ」


この頃、調所広郷は「重豪派」(本音はどうであれ)であったと推察されます。文化6年(1809年)に斉宣は強制隠居となり、後を継いだのが孫の斉興で当時18歳。重豪は「斉宣の反逆を招いた事」を反省し、再び実権を握ります。調所広郷はこの重豪の後押しもあり、斉興(実質的には重豪ですが)に仕える事になります。

藩政改革

調所広郷は使番・町奉行などを歴任し、薩摩藩の行政官としてのキャリアを歩み始めます。この頃に、事実上「ご公儀の黙認」の元に行われていた密貿易の仕組なども理解したと思われます。重豪の見立て通り、優秀な行政官であり順調に累進していきます。




さて、借金は借金です。
重豪が実権を握ったからと言って借金が減る訳ではありません。あまり、薩摩藩の財政事情に明かるいとは言えなかったと思われる重豪ではありますが、晩年にはその深刻さを流石に理解していたようです。




自らが見出し登用した調所広郷に白羽の矢が立てます。文政10年(1827)に薩摩藩の「財政再建」を重豪から厳命されます。




調所広郷はこの時何を考えたでしょうか?




「財政再建」は既に、先代の斉宣の時に(政治抗争という側面もあったが)一度頓挫しています。緊縮財政(蘭癖を改める)は不可能(少なくとも重豪存命中は)なんですね。




だからこそ、「歳出を減らす」ではなく「儲かる仕組み」を考えます。ここからは良く知られているように、事実上の借金踏み倒し(250年無利子償還)と、琉球を拠点とした密貿易を盛んにするなどして財政再建を進めます。事実上の踏み倒しとも言われますが、債権者の商人達には「儲かる仕組み(密貿易推奨)」を与えています。ある意味では「ウィンウィン」の関係と言えるのではないでしょうか?・・・薩摩が破綻しては商人も困りますからね。
※踏み倒しといっても廃藩置県後の明治5年(1872年)までは払われている。




勿論、土地は有限なので「売れる」商品の作付を奨励すればその分「食べる」ものには事欠きます。力を入れた「砂糖」などは奄美三島の特産品でもあった事もあり管理が徹底され生活は厳しいものでした。本当に国を支える百姓・農民の犠牲の上での財政再建というのは忘れてはいけないと思います。




しかし、調所広郷が「儲かる仕組み」を考えざる得なかったのは結果的には重豪の存在が大きかったのではと思います。

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家老となるも斉彬と争い自死

調所広郷は重豪が亡くなる前年、天保3年(1832年)には家老格累進。天保9年(1838年)には正式に家老に、天保11年(1840年)には貯蓄が250万両と財政再建に成功します。




密貿易等で「儲け」が上がる一方で金食い虫であった「蘭癖の大々殿(まだ先代斉宣も存命)」が亡くなった事も大きかったと思います。




ただ、ここで気になる人物が。




斉彬です。




ようやく「金食い虫」の蘭癖が居なくなったと思ったらどうも、斉彬には「重豪」と同じ匂いが・・・。




結果的には斉彬に「密貿易」を咎められ自死してしまうのですが、斉彬は自身を見つけ、取り立てくれた重豪が溺愛した曾孫です。




この時の調所広郷の心中は複雑なものがあったのではないかなと思います。

調所広郷は最初の生贄か?

さて、自ら命を絶ち斉興を守った調所広郷。しかし、その甲斐なく?後に斉彬が藩主となります。大河ドラマ「翔ぶが如く」でも斉彬はその死を悼む場面があります。ただし、斉彬は藩主に就任の後はこの調所家を処分しています。

由賊調奸?

斉彬の当時の心理は想像するしかありません。ただ、父斉興との権力闘争に勝ち藩主に就任したとは言え、斉興は存命であります。斉興の妻お由羅やその息子久光を処分する事は出来ません。




また、「お由羅派」に与した一門衆や上級の藩士にもお咎めはありませんでした。




一人、調所家を除いて。




斉彬は藩主に就任の後、禄高と屋敷の召上げという憂き目に合っています。ぞのため、一時期調所家は困窮します。




大河ドラマ「翔ぶが如く第2話」で吉兵衛が斉彬に対して「お由羅派を処分すべし!」と、厳しい弾劾の意見書を出していますが、藩内の空気、推して知るべしです。




如何に、家臣団の「融和」をはかるためとは言え何らかの「ケジメ」は必要という事なのかなと思います。丁度、「密貿易」という理由もありますからね。




当時、調所広郷の息子は広丈は11才前後。多感な時期に父親を失い、家屋敷を失い、後指を差されていたのではないでしょうか。




ただ、この調所広郷の息子広丈は後に戊辰戦争・函館戦争で活躍し、札幌県令や高知県知事などを経て、男爵にも叙任されています。流石、薩摩藩の二才どんといったところですね。




以上、調所広郷の改革とは?「蘭癖」重豪に見いだされた皮肉でございます。

今宵は此処までに致します。