阿部正弘井伊直弼。共に幕末期に幕閣を率いた人物です。阿部正弘が老中の時代に二人は老中(首座)と溜詰の筆頭として接点があります。方や溜詰筆頭の家柄の井伊家、方や譜代最古参の阿部家。一説には「険悪」であったという説もありますが・・・?井伊直弼阿部正弘の関係について。

井伊直弼と阿部正弘の来歴

井伊家は言わずと知れた「井伊の赤備」で武勇を誇り譜代大名筆頭と言われる家柄です。一方で阿部家もまた譜代大名の中でも最古参と言われる程の家柄であり、またその始祖は帝(第8代孝元天皇第一皇子阿部大彦命)に繋がると言われています。まずは、二人の来歴を簡単に見てみます。

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阿部正弘は期待の新星

阿部正弘は文政2年(1819年)第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で誕生。長男の正粹の廃嫡、また後を継いだ兄の正寧が病気を理由に隠居し、若干17歳で阿部家の家督を継承します。




因みに、余談ですが隠居した兄正寧は長命で維新を越えて明治3年に62歳で亡くなっています。隠居後に子を成している事もあり、「病気」というよりも本人のやる気の問題かと思われます。
(まあ、弟正弘の非凡な才覚を見越してであった可能性も・・・ないかな?)




正弘は家督を継承すると、奏者番、寺社奉行などを歴任。この寺社奉行時代に「大奥」と「寺社」の不適切な関係が露見します。この辺りは「ドラマ、大奥シリーズ」でも取り上げられますが、11代将軍家斉の側室であったお美代(専行院)の実父日啓(智泉院住職)の影響で、大奥の者が「墓参」と称して寺社に入り浸り僧侶達と不適切な関係を結んでいました。




阿部正弘の寺社奉行時代は丁度家斉から家慶への代代わりがあったのですが、その処理を「適切(家斉の不名誉としないよう配慮)」に処理した事で家慶の信頼を勝ち得たと言われます。結果、天保14年(1843年)には当時としては異例の若さである25歳で老中、弘化2年(1845年)には老中首座となっています。




因みに、前の老中首座は「天保の改革」で知られる水野忠邦。水野忠邦はその「急進的な改革」が庶民・そして幕府官僚にも支持されず、阿部正弘は水野忠邦を追うような形で老中首座に就任。




以降は、異国船が度々現れる難しい時代に、積極的な人材登用を実施。阿部正弘についてはやや「批判的」に論じられる事も多いのですが、そういった批判をする者も認めざる得ないのが「積極的な人材登用」ですね。




幕末期、曲がりなりにも「外交」が出来たのはこの阿部正弘の人材登用があったからなのは間違いありません。




若くして、幕府の期待を一身に担った「超新星」が阿部正弘と言えると思います。

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遅れて来た救世主か?死神か?

一方で井伊直弼。井伊家は譜代大名筆頭と言われます。よく知られているように江戸幕府では薩摩(島津)や仙台藩(伊達)・金沢藩(前田)といった、大きな石高を持っていても幕政には関与できません。
一方で石高は数万石と少ない譜代大名(御家門)は幕政を一手に担っていました。




ただ、それでも大名の「格」的なものもやはりあり、数万石の大名では大藩には中々モノを言い難い部分があります。




しかし、そんな中でも彦根藩は35万石という大藩です。
(阿部氏は11万石、同じく大老を出せる家柄の酒井氏でも17万石)




しかも、彦根といえば京に近い。ここに「35万石で井伊家」を配した家康の期待と信頼が伺えます。




しかし、井伊直弼は?




井伊直弼は文化12年(1815年)に彦根藩主第13代藩主井伊直中の十四男として誕生。兄弟も多く、また側室の子であった事もあり父直中の死後17歳~32歳までを「部屋住」として生活します。



当時の井伊直弼に与えられたのは「300俵(120石程度)」。ざっくり年収1,000円といった感じでしょうか。




勿論、1人で生きていく分には問題はなかったいでしょうが「家臣」を持ち譜代筆頭に相応しいそれなりの「待遇」を得ることなどは難しい状況でした。




ただ、そのような境遇の直弼は腐ることなく「学問・茶道」に救いを求めます。




直弼は自分自身を「決して花の咲く事のない埋もれ木」に例え、「埋木舎(うもれぎや)」と名付けた庵を結び茶の湯や学問の道を極ようとします。




実際、特に「茶人」としてはかなりの人物になっています。ドラマでも「茶人」としての直弼はよく描かれていますね。




個人的には「大河ドラマ篤姫(2008年)」で篤姫(宮崎あおい)が直弼(中村梅雀)に茶をたててもらう場面が印象に残っています。直弼の立てた茶を飲むんだ篤姫がその力量(美味しいさ?)に感動し、直弼が決してただの「非道な人間」ではなく、対話の余地のある一角の人物であると悟る場面。確か、丁度「桜田門外の変」の直前なんですよね。




茶人としてだけでなく、「国学者」としてもかなりの人物となっています。そして、この頃に生涯の師ともいうべき人物とも出会っています。




長野主膳




詳しくは改めて記載しますが、この井伊直弼と長野主膳こそ、薩摩の島津斉彬・西郷吉之助、越前松平春嶽と橋本左内のような、いや、それ以上の「名コンビ」として「安政の大獄」に邁進します。




さて、話を戻します。
井伊家の家督を継いだのは兄の井伊直亮(三男)でしたが、子がありませんでした。そこで、同じく兄の直元(十一男)を養子として迎えていましたがこれが病死。主だった兄弟は皆養子に出されており今更井伊家に戻す事は出来ません。




ここで、「十四男」の直弼が直元の養子となり世継となります。嘉永3年(1850年)11月に兄で先代藩主で養父の直亮が亡くなった事で井伊家35万石を継承します。




何事もなければ「埋もれ木」として花を咲かす事なく枯れるはずでしたが、遅くはなったもののついに花を咲かせた直弼。




将来を嘱望され若くして幕閣の枢要に加わった阿部正弘。誰にも顧みられる事のない埋もれ木であったはずが、長い年月をかけて花を咲かせた井伊直弼。




対照的な人生を送り二人は表舞台へと登場します。

直弼の苦悩と正弘の警戒

直弼が井伊家を継承し「表舞台」に出て来た時、既に阿部正弘は老中首座にありました。井伊家は前述の通り「譜代筆頭」「溜詰筆頭」であるため江戸城の溜詰で幕府に意見を具申できる立場にあります。そして「大老」をも出す事が出来る家柄でもありましたが、ついに、阿部正弘存命中は「老中」にさえ指名はさていません。

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阿部正弘は直弼の本質を見抜いた?

当時の幕府官僚の常識としては、幕政は「譜代が行う」ものであり、外様大名は勿論、御三家・御三卿等徳川一門でさえ幕政には意見をするべきではないといった意識がありました。




そのような中で諸国の「雄藩」に広く意見を聞き、さらには、川路聖謨やジョン万次郎、岩瀬忠震といった積極的な人材登用を行う阿部正弘は異色の老中と言えるでしょう。




当然、「批判」も多くあったと言われます。しかし、阿部正弘は決して「敵」を作りません。烈公水戸徳川斉昭は阿部正弘を「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」と評されていましたが、これはつまり、様々な批判に対しても、右に左にサラリと受け流す、優柔不断・八方美人、何を考えているのか分からないという意味もあったと思われます。




何故か?




これは幕政に関与するようになった次期が水野忠邦の主導する「天保の改革」に重なっていた事が影響していると思います。天保の改革はもの凄く簡単に評せば「重商主義」から「重農主義」への回帰なのですが、この改革は現実を見ずさらには急進的に進めたため、多くの反発と混乱を産みます。




水野忠邦は側近の裏切り等で失脚後に再度老中に返り咲いているのですが阿部正弘は珍しく、強硬に再任に反対し、結果的には自分がその任に就いています。




阿部正弘は「急進的劇場型幕政」にもう懲りていたのではないでしょうか。




そこで、井伊直弼です。




前述の通り井伊家は譜代筆頭であり大老職も出せる家柄であるにも関わらず、阿部正弘存命中はついに老中には就任していません。家柄と能力(直弼は決して凡々たる藩主ではない)から老中に推薦する人もあったようですが、温和な阿部正弘にしては珍しく、




「断固反対」




をしていたと言われます。阿部正弘もまさか井伊直弼が「安政の大獄」程の犠牲を出すほど急進的とは思っていなかったかもしれませんが、「急進的」な匂いを感じてたのではないかと思われます。

井伊直弼の苦悩

一方で井伊直弼。「埋もれ木」から花を咲かせた譜代筆頭の藩主。




しかし、待っていたのは苦難の連続です。




この時代一部の藩(調所広郷の改革の成果で莫大な財力を有する薩摩藩や庄内藩など)を除き財政は苦しい状況です。しかし、譜代の筆頭となれば、それなりの「軍役・天下普請」に協力しなければなりません。海防のための人員派遣や嘉永7年(1853年)に火災で焼失した京都御所の再建・・・。



※関連記事:→調所広郷の改革は蘭癖のおかげか?


兎に角、金がかかる。




まあ、それでも「金」も「軍役」も致し方ない。しかし、井伊家の屋台骨を揺るがすような「工事」の命令もありました。それが、「琵琶湖の新川開削」です。




彦根藩は琵琶湖を有し、京の都にも近い。この琵琶湖の水運は日本の大都市である京都への物資の輸送には重要であり、これは長年渡り都を守護する井伊家の「利権」であり、藩財政を潤してきました。




しかし、列強の船舶が日本近海に出没するようになると、京の公家達は「異人の侵入」を心配し始めます。



「京への兵站は多い方がよいであろう」



100歩譲ってそれが致し方ないとしてもそれを「彦根藩」に命じるか?自分達の首を絞める工事を自分達で行う事になります。



「察してくれ」



これは、井伊家の重大事であり、井伊直弼も「譜代筆頭」の権威を以て、老中の堀田正睦に充てに猛抗議をしています。この辺りの事情は同じく譜代で井伊家に次石高を擁するものの、貧しい会津藩に近いのではないかなと思います。御役目(建前)とお財政情等(本音)との葛藤。




しかし、この「譜代筆頭井伊直弼の抗議」は完全に無視され、この「琵琶湖の新川開削」は完成されてしまいます。




勿論、これは別段「彦根を苦しめるため」に行ったものではありません。実際都の守りは幕府にとっても大事な役割であり、仮にそれで彦根藩の「利権」が侵されるとしてもそれは「些末なこと」です。



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因みに、井伊直弼は老中の堀田正睦には猛抗議を行っていますが、阿部正弘には何も言っていません。




井伊直弼もまた、阿部正弘を苦手としていたように思われます。



「日の当たる日々を歩いてきた阿部正弘にはこの苦悩は分からない」



阿部正弘は安政4年(1857年)6月に病没します。




井伊直弼としては「目の上のたん瘤」が亡くなったといった感じでしょうか。元々、「家柄」「能力」共に申し分ないないと考えられたいた井伊直弼は、堀田正睦や松平春嶽といった対抗馬をあっさり差し切り大老に就任。




そして、大老井伊直弼は阿部正弘が懸念をした通り、いや、それもしかするとそれ以上に過激な手法で阿部正弘が着々と準備してきた人材達を駆逐してしまいます。




なんとも残念な限りです。




以上、井伊直弼と阿部正弘の関係について。

今宵は此処までに致します。

※参考:明治維新という過ち(原田伊織)・安政の大獄井伊直弼と長野主膳・翔ぶが如く等

→長野主膳とは?井伊直弼との関係と京都人脈

→お由羅騒動の原点は近思禄崩れにあり!苛烈な薩摩の風土がもたらした悲劇

→調所広郷の改革とは?蘭癖重豪に見いだされた皮肉

→将軍から茶器の意味!朱衣肩衝のお値段はいまいくら?