明智光秀は「本能寺の変」をおこすも山崎で破れ、その後農民に討たれますが子供達の運命はどうなったのか?明智光秀子供と言うと後に関ヶ原直前に壮絶な最期を遂げた玉ことガラシャが良く知られていますが、その他にも妻煕子との間には三男四女があったと伝わります。明智光秀子供は?家系図子孫についても。

明智光秀の子供~息子編~

明智光秀の子供に関して江戸時代中期に成立した「明智軍記」によると三男四女があったとされておりこれが通説としてよく知られております。ただ、他にも「六男七女」といった説(明智系図)もあり判然としない部分もあります。

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明智光秀の家系図

明智光秀の子供達でほぼ確実に存在したであろうと言われているのは二男三女。「ほぼ確実」というのは家系図等の資料だけではなく同時代人の日記や他の家系図にも記載がある人物ですね。



※大河姫作成明智光秀家系図




明智光秀の子供達については全員正妻の煕子との間の子供というのが有力とされております。




今回はほぼ確実と言われる子供達について見て行きたいと思います。

嫡男「光慶(みつよし)」

明智光秀の嫡男明智光慶。確実に存在してはいるといってもその事績・活躍を確認できる資料は非常に乏しいです。




実際、明智光秀を主要登場人物として扱っているドラマでも、よく触れられるのは後述する細川忠興の妻の玉ちゃんや荒木村重の嫡男村次に嫁ぐものの、村重の謀反により離縁となり後に秀満に嫁いだ「さと」など「娘」が中心で光慶に触れているものは少ないですね。




光慶は元服や初陣、誕生に関しての記録もありません。
(江戸中期成立の明智軍記などによれば死亡時14歳という事で永禄12年(1569年生)とも言われる)




光慶の名が初めて登場するのは本能寺の変の4年程前。光秀が信長の覚え目出度く丹波攻略の拠点として亀山城を築城している頃に光秀の書状に「光慶」の名前が初めて登場します。




そして、次に光慶の名前が現れるのは運命の天正10年。




本能寺の変の前月に開催された蓮歌会、所謂「愛宕百韻」にも参加し、



「国々は猶のどかなるころ」



と、下の句を詠んでおります。




光慶の「本能寺の変後」についての行動とその最期については二つの説があります。




光慶は本能寺の変勃発時には丹波亀山城にあったのですが、父が信長に謀反を起こしたと知るとその「無謀」を嘆き自害(憤死)したという説です。なんだか、細川藤孝・忠興父子の行動を彷彿させますね。




もう一つは本能寺の変以降、一貫して光秀の本拠地坂本城に在城しており、光秀が山崎の戦いで破れ落武者狩りで命を落とした後に一族の明智秀満等と共に坂本城と運命を共にしたと言う説です。




いずれにしても、「本能寺の変」「山崎の戦い」を前後して最期を迎えてたいうのが通説とされております。




また、異説として妙心寺や本徳寺の住職として生き残った説、遥々上総まで落ち延びて子孫を残しているという説もあります。ただ、現状「通説・有力説」というまでには至ってはおりません。

次男「自然(じねん)」

明智光秀の次男と考えられているのが自然。2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場して注目を集めました。



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おんな城主直虎では「可愛い子供」ではありましたが、明智軍記では光秀の次男光泰の幼名が「自然」とされております。実際は元服を済ましている位の年齢には達していたのではないでしょうか。




また、同時代に茶人としても名を馳せた津田宗及が茶会の記録として「宗及茶湯日記他会記」「宗及茶湯日記自会記」(総称して天王寺屋会記)を書き残しているのですが、そこに光秀と息子の記録も残されています。



「惟任日向守殿父子三人」



との茶会の記録が残っており、少なくとも「二人の息子(光慶と自然?)」の存在は間違いなさそうです。




また、茶会に参加をしている位なのでやはり自然も「ある程度の年齢」には達していた事は間違いなさそうだと思います。




自然(光泰)の最期については秀満など一族と共に坂本城落城と運命を共にしたと伝わります。フロイスの書状にも「坂本城落城の折に光秀の息子二人も亡くなった」とあります。

明智光秀の子供~娘編~

明智光秀の息子達についてはその来歴がはっきりしない部分も多いのですが、娘たちの来歴は悲劇的な最期を迎えた玉(ガラシャ)始め良く知られております。

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長女「さと」

明智光秀の長女「さと」。光秀の娘というと前述の通り「玉(ガラシャ)」が有名ですが長女の「さと」の運命も数奇なものでした。




2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では珍しく?玉が登場せず、この光秀の長女さと(役名では倫)がフューチャーされておりました。



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長女さとは天正6年(1578年)織田家重臣として活躍していた荒木村重の嫡男荒木村次に嫁いでおりました。村重はこの頃摂津一国を任されていた有力武将。因みに同じ年後述の玉(ガラシャ)は細川忠興に嫁いでおります。




しかし、その縁組があった天正6年の10月に荒木村重は突如信長に反旗を翻します。



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光秀は村重謀反の直後に、自ら有岡城へと赴くと新婚のさとを離縁させて連れ帰ります。そして、その後さとは一族の明智秀満に嫁ぎ、本能寺の変、山崎の戦いの後は夫の秀満と共に坂本城と運命を共にしたと言われております。




遠藤周作の「反逆」では「村次との縁組」も「いつか来る日」に向けて布石を打っていたという説を元に描かれていますね。




荒木村重が謀反に至らず摂津一国も維持したまま本能寺の変を迎えていたら・・・?




ちょっと様相も変わっていたか・・・!?

次女の玉ことガラシャ

ガラシャについては多くを語る必要はないほどその名前は良く知られております。




天正6年(1578年)に室町幕府最後の将軍足利義昭の旧臣として昵懇であった細川藤孝の嫡男、細川忠興に嫁いでおります。




本能寺の変の後、光秀はこの「縁戚関係」もあり、細川藤孝を頼みにしておりました。しかし、細川藤孝・忠興父子は光秀には与せず、また光秀は山崎の戦いで秀吉に破れ滅んでしまいます。




玉はその後は「反逆者の娘」という事になりますが、忠興は離縁等をする事はなく「幽閉」という形で玉を守ります。




秀吉も光秀を討った後は「幽閉を解いて細川屋敷へ戻す事」を勧め、天正12年(1584年)には幽閉を解かれ約2年振りに大坂の細川屋敷へ戻っております。




幽閉を解かれ大坂へ戻る頃には高山右近の影響もありキリシタンに改宗。




秀吉の死後に石田三成と徳川家康の対立が先鋭化。




三成は家康が上杉征伐の為に大阪から出陣すると挙兵。さらに、家康と共に出陣した大名の妻子を人質としますが玉(ガラシャ)は人質となるを潔しとせず、家臣に自らを刺させて亡くなります。
享年36歳。

三女津田信澄の妻

信長の弟で信長に二度反旗を翻して返り討ちとなった信行。




信行の子供達は助命されその1人が信澄。




信澄は当初浅井家の旧臣である磯野員昌の養子となり、磯野員昌が出奔後はその旧領を引き継いだと見られます。




そして、その頃光秀の丹波攻略にも協力。この頃に信長の命で光秀の娘を妻に迎えております。

明智光秀の子孫

明智光秀の直系男子は光秀の亡き後坂本城と運命を共にしたと言われております。しかし、細川忠興に嫁いだ玉(ガラシャ)は熊本藩初代藩主となる細川忠利をはじめ多くの子息を残しております。

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細川一門と現在の光秀の子孫




細川忠興とガラシャの間には嫡男忠隆、次男興秋、そして三男で後の福岡藩初代藩主である忠興がおります。三人ともにガラシャ、即ち光秀の子孫と言う事になりますね。




三人の息子達は関ヶ原前後で数奇な運命を辿る事に。




忠隆は前田利家の娘を妻としておりましたが、家康との結びつきを強めたい忠興に離縁を命じられるとこれに反発。忠興は激怒し忠隆は廃嫡となります。




また、江戸で人質を務めていた忠利を跡取りとして、次男の興秋を代わりの人質として江戸へと送ろうとしますが、その途上興秋は出奔し出家。後の大坂の陣では豊臣方として奮戦しておりますが、豊臣家は敗北・滅亡。豊臣家滅亡後は細川の家臣の元に身を寄せますが興秋の行動を父忠興は許さず切腹させておりますね。




忠興・忠隆の子孫はその後も江戸時代、明治大正昭和平成を乗り越えております。




55年体制を崩壊させた細川連立内閣。その細川護熙元首相は忠興の直系子孫で肥後細川家の第18代当主。また、昭和末期から平成初期にかけて活躍した政治評論家の細川隆一郎、細川隆元は廃嫡された忠隆の血を引いております。

明智光秀のクリスペプラーも子孫?

ラジオパーソナリティとして有名なクリスペプラーさんも明智光秀の子孫という説があります。テレビ番組などでも取り上げられているのでご存知の方も多いかもしれません。




彼の母方の祖母は明智光秀の実子説がある土岐頼勝の子孫に当たります。




また、「本能寺の変 四二七年目の真実」の著者で作家としても活躍されている明智憲三郎も光秀の子孫説がありますね。件の明智憲三郎さんは光秀の子の一人と言われる於鶴丸の子孫にあたるとのこと。




前述の明智光秀嫡男「光慶」でも触れましたが、異説として光秀の子供達が生き残って「明智姓」を捨て生き残っていたという説は全国に散見されます。




明智憲三郎さんの説(本能寺の変家康黒幕説)は現状「通説」とはなってはいませんが今後新たな事実が掘り起こされる事もあるかもしれませんね。




以上、明智光秀の子供は?家系図と子孫についてでございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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