三好長慶は畿内周辺にいわゆる「三好政権」を樹立。「三好政権」はその立役者であった三好長慶の死を持って崩壊へと向かいます。しかし、その「崩壊の芽」は既に長慶の存命中、いや「長慶自身」にあったように思うのです。それは私が三好長慶が好きな理由でもあるのですが、松永久秀が謀反を起こした理由でもあるのではないかと。三好長慶の限界と松永久秀の願いについて。

三好長慶の限界

三好氏が畿内で活躍する先鞭をつけたと言われるのが三好長慶の祖父(曾祖父?)三好之長(1458-1520)。細川讃州家(阿波守護家)に仕え、応人・文明の乱(1467-1478)で混乱する畿内で頭角を現し、乱が終結する頃には細川京兆家(細川管領家、細川氏宗家)の有力家臣となっております。




三好長慶登場以前から三好氏は畿内で一定の「影響力」を持っておりました。

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三好長慶の見ていた世界

応仁・文明の乱に関してここでは多くは語りませんが、きっかけは室町幕府の有力大名である畠山氏の跡目争いですね。



大河姫

花の乱を見ると応仁の乱がよく分かる。

乱終結後も「将軍の跡目争い」や「細川家(管領家)の跡目争い」などが続き、畿内は常に不安定な状況に置かれておりました。




細川家の有力家臣であった三好氏もその争いと無関係でいることはできません。三好長慶は父三好元長(1501-1532)を主君でもある細川晴元によって事実上殺されております。




三好長慶には「将軍」も「管領」も自分自身と大いに関わりのある「身近な存在」であったと言えるのではないかと思います。




その後、紆余曲折あって「父殺し」の細川晴元に仕えていますが、後に対立。その対立は政治的な対立に留まらず「将軍家」を巻き込み直接刃を交えることに。戦いは終始三好側が優勢でありながら、長慶はけっして「室町幕府・管領体制」を壊しませんでした。




いや、自身が優位でありながらも義輝(晴元)との和睦を願っております。和睦が成った際には「主君との和睦」に嬉し涙を流したという逸話もあるそうです。




三好長慶にはどんな世界が見えていたのか?




どんな世界を望んだのか?




どんなに優秀な人間であっても己の育った環境と世界から逃れることは出来ない(かなり難しい)と思うのですよね。




長慶は一族の受難も全て「室町幕府の混乱」が問題であるように見えていたのではないかと思うのです。そして、それに代わるような体制(例えば天下布武)のイメージはない。ならば。自らの力であるべき姿を取り戻そうとしているように見えます。

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松永久秀の見ていた世界

松永久秀は商人出身とも言われておりますが、その出自ははっきりとは分かりません。




1533年頃から三好長慶の右筆として仕え始めたと言われます。1540年頃にはなんらかの奉行職にもついており、松永久秀の官職として有名な「弾正忠」の名で発給した文書も残っているそうです。




しかし、その類まれなる才覚を発揮するのは三好長慶と管領細川晴元の対立が表面化した後のこと。長慶が将軍足利義輝と晴元を近江に追放し、京の支配者となってから。




松永久秀は、近江に追放された晴元が度々復権を企図して京、山城へ軍勢を向けると、相国寺の戦い(1551年)北白川の戦い(1558年)では三好方の勝利に貢献しております。三好長慶と畠山高政が戦った戦国期畿内最大の戦い教興寺の戦い(1562年)にも参戦しております。




政治・軍事両面に渡って八面六臂の活躍であり、大和国一国の管理を任され事実上の大名に。梟雄のイメージが強い松永久秀ではありますが、三好長慶が存命中は一度も背くことはありませんでした。




ありませんでしたが。




物足りなさを感じたことはあったのではないかなと思うのですよね。




松永久秀が惚れ込んだ三好長慶はあくまで「室町体制(アンシャンレジーム)」の中での勢力拡大と秩序回復を目指している。




松永久秀から見れば既に「室町幕府は終わっている」のです。しかし、その松永久秀もまた「新体制」のイメージは無かった。




三好長慶という才能と強大な三好一族の軍事力・経済力をもっても天下は安定をみないものなのか?




それを示してくれたのが次の天下人である織田信長。

三好長慶と織田信長

三好政権は三好長慶の晩年には嫡男で跡取りと目されていた義興の死、長慶を支えてきた実弟達の死も重なり動揺を見せます。そして、三好長慶も永禄7年(1564年)に病没。三好政権はいわゆる「三好三人衆」や松永久秀などを中心とした集団指導体制へ。

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室町体制崩壊の序章

長慶存命中は殆ど「傀儡」に過ぎなかった足利義輝も三好政権の混乱を機に独立を企図。諸国の有力大名に上洛を促します。




これは別段新しいことではなく、室町中央政界での覇権争いが大きくなると、助っ人に地方の有力大名を呼び込むというのは室町体制の常套手段でもあります。応仁・文明の乱以降、例えば大内氏などは度々大軍を率いて上洛しております。




足利義輝は三好政権における力の源泉は長慶その人であり、長慶亡き三好などは恐れるに足らんと思ったかもしれません。




確かに、長慶は三好政権の守護者でありました。




それは、「室町政権」もっと言えば「足利義輝の守護者」でもあったのです。




三好三人衆と松永久通(久秀嫡男)により足利義輝は謀殺されます。




室町体制下の戦いは「将軍の奪い合い」はあっても、その将軍を亡き者とすることはありませんでした。この時、三歩時代が進んだのです。



大河姫

足利義輝の謀殺と足利義教の謀殺は質が違う。

その後、織田信長(当時の勢力は尾張・美濃)上洛により三好政権は完全に崩壊します。




松永久秀は三好三人衆とは対立するに至っていたこともあり織田信長に降っており、ここからが信長との関係がはじまります。




信長の上洛は将軍足利義昭を奉じてという体裁で行われました。これもまた、室町体制の「枠内」のよう見えます。




三歩進んだものの、二歩下がった。




ように見えた。




しかし、信長はこれまでの「守護者」とはその質が異なっていた。

ポスト、室町体制へ

足利義昭は権謀術数に長け、根性もあり、しぶとい御仁ではありましたが、その思考、見ている世界にはやはり限界があります。義昭もまた室町体制の世界観なのですよね。




信長が「使えない」のなら「新しい守護者」を上洛させればよい。




しかし、信長はこれまでの「都人」とも「田舎人」とも異なる人物でした。



大河姫

ここは尾張。西に都人あり。東に田舎人ありじゃ。都人の鼻持ちならない高慢さと田舎人の世間を知らぬ高慢さ。この二つを思うがままに操られねば天下は獲れぬ。by信長

信長はあっさりと室町幕府を滅ぼします。




そして、何が起きたか?




何も起きなかったのである。




三好政権の興亡を見てきた松永久秀には感慨深いものがあったはず。



「なんだ、こんな簡単なことか」



あの時、何故幕府を滅ぼさなかった・・・!

久秀、立つ

久秀が信長に仕えて約10年。




松永久秀は最後の「裏切り」に敗北し信貴山城で爆死してしまいます。




ちょっと乱暴かもしれないのですが・・・。




自分自身で天下人をプロデュースしてみたくなったのではないかと思うのですよね。




そして、かつて仕えていた三好長慶の「遺産(支配体制)」を利用しながら、パラダイムシフトに成功した信長に対する「嫉妬」もあったような・・・。




もっと乱暴に言えば、その後釜には明智光秀(と、荒木村重)を考えていたかも・・・?

三好長慶と平清盛

私は類まれなる才覚を持ちながら、その才覚故に「時代の変化に気付けない」人物に魅力を感じてしまいます。




その代表が三好長慶と平清盛なんですよね。




平氏政権は昨今では「日本最初の武家政権」と言われておりますが、その支配体制の軸は平安期からの延長線上にあると思います。




そして、清盛の存命中はその類まれなる才覚のお陰(所為)で、なんとか回っていく。




同じく三好長慶。




三好長慶もまたその類まれなる才覚で「事実上の天下人」でありながら、その支配体制の軸は室町体制の延長線上にある。




この悲劇。




今も感じるんですよね。



「この人はこれ程の才覚があるのに、サラリーマンなんだ・・・」



優秀なのに、なんでも出来るのに、サラリーマンである事を辞めない。才能と時間の無駄遣い・・・。嗚呼!




まあ、アタマで分かっていても行動に移せないというのもあるとは思いますけど。




以上、三好長慶の限界と松永久秀の夢について。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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