明智光秀ゆかりのとしてよく知られているのが近江坂本城。後に、本能寺の変で信長に反旗を翻すことになりますが、坂本城は安土城に先行して天守構造を持つ城として有名。他にも、坂本城以前に居城としていた宇佐山城や丹波平定後に普請した福知山城、亀山城などゆかりの城は多いですね。明智光秀と城との関わりについてその立地からも考察。

明智光秀の城「近江編」

明智光秀ゆかりの城について。前半では近江国は琵琶湖周辺の城を中心に見ていきます。



※Googlemapを元に加工


立地を改め見ると美しいですね。

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明智光秀表舞台に!「宇佐山城」

明智光秀が歴史の表舞台に登場するのは織田信長が足利義昭を奉じて上洛をする1568年前後から。



当時、明智光秀は足利義昭の家臣でしたが、上洛した信長に従い事実上京都奉行のような役割を担うことになります。信長研究の第一級資料としても名高い太田牛一「信長公記」にもこの頃に目出度く初登場。




宇佐山城は信長の上洛の後に森可成によって築城されております。宇佐山城は明智光秀の築城ではないんですね。




信長は浅井・朝倉の南進への備えにこの標高336mの宇佐山に目を付けていました。また、交通の要衝でもある琵琶湖からも1キロほどと後の「琵琶湖城郭網」も視野に入っていたかもしれません。




そして、その「宇佐山城」はすぐに大活躍することになります。




信長の主力が摂津へと出陣している間に浅井・朝倉が南進し「宇佐山城の戦い(1570年9月)」が始まります。浅井・朝倉は約三万に対して宇佐山城を守る守備隊は森可成以下一千程度。




城主の森可成は奮戦するも討死。しかし、宇佐山城は信長が主力を率いて戻るまで粘り続けついに浅井・朝倉撃退に成功。




この時、主である森可成を失った宇佐山城へ入ったのが明智光秀。滋賀郡の国衆の懐柔など代官のような役目を命じられております。




後に比叡山焼き討ちでの活躍をもって正式に宇佐山城のある滋賀郡5万石の支配を任されるに至り、事実上幕臣から信長の旗下に入ったと言えるのではないでしょうか。



大河姫

「比叡山焼き討ち」は信長が積極的に推し進め、光秀は止めていたという印象が強いですね。しかし、光秀の書状に比叡山に与する仰木の地は「撫で切り(皆殺し)」にしなければならないとあるなど、寧ろここで手柄を立てようと積極的だったという説もあります。

宇佐山城は後に坂本城が築城されると廃城となりますが、その遺構は現在も残っております。宇佐山城は安土城、坂本城に先んじた石垣(野面積み、自然石を2mほどの高さに積み上げていた)構造で、後の坂本城や安土城の石垣構造にも影響を与えていると思われまます。





宇佐山城は光秀にとって「飛躍の城」と言えると思います。

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天守閣登場!「坂本城」

明智光秀の城で最もよく知られているのはこの「坂本城」ではないでしょうか。




坂本城は元亀2年(1571年)に比叡山焼き討ちで功のあった明智光秀が近江滋賀郡を与えられた際に築城を命じられております。




ルイス・フロイスによると、



「安土城につぐ天下第二の城」


と、評される見事な城であったと伝わっております。




また、光秀と懇意にしていた吉田兼美の日記には坂本城の「天主(天守)」についての記載があり、天守構造を持っていたのは間違いないと思われます。





戦国時代の城というと大坂城や安土城のように石垣の上に築かれた壮大な天守構造を持つものとイメージしがちですが、それは戦国後期の「近世城郭」であり、多くの城は天然の険峻を利用した山城が中心でした。




城の役割が戦国後期に向かって純粋な「要塞」から「政治的象徴」に移り変わっていたことも理由の一つだと思います。




そして、その戦国後期に登場した天守構造を持つ近世城郭の嚆矢が安土城なのですが、この安土城築城の前に天守構造を持つ城として坂本城が築城されております。




坂本城は明智光秀が敗れたのちにその資材や石垣などすべて大津城に転用されてしまい、当時の雄姿を忍ばせるものは殆ど残ってはいませんが、信長の安土城建築開始(1576年)に、4年も先んじていた光秀の高い築城技術と先見性を感じますね。

明智光秀生誕の城「明智城」

前半最後は近江ではないのですが明智光秀生誕の城について。明智光秀が歴史の表舞台に登場するのはおおむね信長が足利義昭を奉じて上洛を果たす頃からで、それ以前の記録は判然としない部分が多いのですが、美濃周辺で誕生したというのはほぼ間違いないと言われております。




そして、その明智光秀誕生の城と言われているのが「明智城」です。





※Googlemapを加工



その歴史は古く、南北朝時代にまで遡ることが出来ます。土岐明智二郎下野守頼兼が康永元年(1342年)美濃国可児郡明智庄長山に明智城を築城したといわれております。



大河姫

この「土岐頼兼」は後醍醐天皇の倒幕運動に加担していた土岐頼員の従弟とも言われております。土岐頼員が倒幕運動を妻に漏らしたことからこれが六波羅に露見し、所謂「正中の変」となるのですが、土岐頼兼も連座して六波羅の急襲を受けて亡くなったとも言われております。

正中の変が1324年(建武の新政は1333年)なので時代は少々ずれているか、あるいは正中の変で横死していなかったのかもしれません。この辺りの事情は太平記に詳しい。

その後、約200年に渡り明智家の居城でしたが、美濃のマムシこと斎藤道三と息子義龍の争いで道三方についた明智家は義龍の攻撃を受けて城は落城。




この時、明智光秀の叔父である光安をはじめ、主だった一族は城と運命を共にしたとも。




一方、光秀は身重の妻を背負い、命からがら越前へと逃れたと言われております。




明智城は小高い自然の丘陵地帯をうまく活かした典型的な山城です。別名「長山城」とも言われ、現在は「明智長山城跡」として市の史跡にも指定されています。

明智光秀の城「丹波国編」

明智光秀の絶頂期、そして転落のきっかけにもなるのが運命の丹波国。信長から「高い評価」を得たのも丹波攻めの功績。「不興を買った」のも丹波の領国経営にかまけて積極性を失った事が理由の一つとも言われております。光秀が丹波経営に関わったのは決して長い期間ではありませんでしたが、見事な足跡を残しております。



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航空写真で見るとそれぞれの盆地が山々で隔てれているのがよく分かりますね。

丹波支配の拠点「福知山城」

福知山城は明智光秀が改名する前は「横山城」と呼ばれておりました。




横山城を築城したのは塩見(小笠原)頼勝。塩見氏は信濃源氏小笠原氏の流れをくむ一族です。




丹波国は国人衆の力が強く丹波を統一する大名は現れませんでした。




その丹波で勢いが盛んであり、光秀を苦しめたのが波多野氏、そして「丹波の赤鬼」こと赤井直正。横田城の塩見氏もまた波多野氏側に付いて光秀に抵抗します。




しかし、赤井直正の病死、波多野秀治の八上城も落城すると、横山城も落城。福知山周辺の国衆は光秀に降伏し、ここに光秀による丹波平定が成り信長からそのまま丹波を与えられます。




光秀は横山城を福知山城と改めて領国経営の中心として腹心一族明智秀満を配しています。福知山城は丹波の中心部に位置しますからね。



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由良川と土師川の合流地点にあり、両河川が天然の堀の役割を担っております。




現在の福知山城は関ヶ原以降に入場した有馬豊氏が整備したものが原型で昭和時代に再建されたものです。




ただ、石垣の一部は明智光秀時代のものがそのまま利用されております。




特に、天守台の石垣は「野面積み」で様々な石材が利用されており、中でも目を引くのが「寺院」や「墓石」を転用したと思われる石材。




縁起が悪そうですね。しかし、この転用石の多くが上下逆さまに配置されております。





逆さまに配することで「縁起が悪いのを転じている」という意味があると言われているそうです。




・・・光秀の最期は縁起が良いものにはなりませんでしたが・・・!

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天然の要害「八上城」

丹波は明智光秀による平定まで統一されることなく、丹波の戦国大名が現れることはありませんでした。しかし、丹波の国衆から戦国大名に飛躍する可能性があった一族がおります。




光秀を苦しめた波多野氏ですね。



大河姫

波多野氏を戦国大名とする説もあります。戦国大名の定義自体がやや曖昧ではあるのですが、「独自の支配権確立」「有力国衆を家臣団に組入れ統制」の有無などが言われております。例えば毛利氏は波多野氏と同じイチ国人・国衆から西国最強の戦国大名へ飛躍していますね。

一方で武田氏・今川氏等は守護大名から戦国大名へ「変化した」と言えると思います。波多野氏は丁度「国衆」というには影響力が大きいが、大名と言えるほど独自性は発揮していない「境界」にあたる一族と言えるのではないかと。

波多野氏は応仁の乱以降目まぐるしく変わる京都中央政界室町幕府の権力闘争に一定の影響力を持ち続けていました。その波多野氏が居城としていたのが八上城です。




波多野氏は応仁の乱で功があり、後に幕府を掌握した細川政元(応仁の乱東軍総大将細川勝元の子)から、多気郡を与えらてこの地に定着したとされます。





ご覧の通り、高城山(460m)に位置しており、山陰街道を東西に見下ろすことが出来る天然の要害です。




八上城は波多野氏が中央で影響力を持っていた関係から、度々戦となっておりますが、その防衛力を遺憾なく発揮したのは天正3年(1575年)から始まる明智光秀の丹波攻め以降。




特に最後となる天正6年(1578年)3月からの戦いでは1年以上渡って籠城戦を戦い抜きました。城主で最後の当主となる波多野秀治が降伏し此処に(事実上)丹波平定が成るのです。




因みにこの「八上城と波多野氏」というと光秀の母の話を思い出す方も多いかと思います。




光秀が自身の母を人質として差出して本領安堵を条件に降伏を進めたという説ですね。しかし、波多野秀治は信長に斬られ、怒った波多野生き残りが光秀の母を処刑してそれが後の本能寺の遠因の一つにもなるとか。




現在では否定されている説ではありますが、幼い時に見た「大河ドラマ秀吉(1996)」では野際陽子さん演じる母が見事に処刑されておりました。

赤井が守る「黒井城」

丹波において八上城の波多野氏と双璧を成すのが赤井氏。




そして、文字通り最後まで光秀を苦しめた赤井直正が守るのが黒井城です。




光秀の丹波平定にあたり当初障害となるのは黒井城の赤井直正だけだと考えられておりました。しかし、信長に恭順していた八上城の波多野秀治は突如反旗を翻し赤井直正と連携。




光秀は丹波平定に苦労することになります。




八上城にしてもこの黒井城にしても天然の要害。




その頂上の本城部分も含め周囲8kmに及ぶ猪口山全体が巨大な要塞で、現在も当時の曲輪や土塁、空堀など遺構を見ることが出来ます。




因みに、この城は眺めが良いことでも有名。度々テレビの城特集でも取り上げられております。





頂上からは高い確率で見事な雲海を見ることが出来ます。

光秀の本城「亀山城」

織田信長の命で丹波攻略中であった明智光秀が天正6年(1578年)に築城したのが亀山城。




光秀は丹波の東に位置し、そして京都にもほど近いこの亀山城を自身の本城とするつもりだったと思われます。他の丹波の城はおおむね天然の険峻を利用した山城が多いのですがこの亀山城は総構え構造を持っております。



※明治5年(1872年)撮影


光秀が山崎で敗れた後は羽柴改め豊臣政権、徳川政権でも重視され、特に徳川政権下では築城の名手藤堂高虎により5重の層塔型天守が建築されました。




因みに、亀山城の住所は現在は京都府になります。

光秀時代の遺構が色濃く残る「周山城」

明智光秀ゆかりの城を見てきましたこの「周山城」が最後。




周山城は天正7年(1579年)に築城されました。因みに、この辺りは「縄野」と呼ばれていたのですが、築城するにあたり「周山」と改めたと言われております。



大河姫

明智光秀は周の武王に自らをなぞらえ改名したたとも言われておりますが、信長が稲葉山城を岐阜城に改めたことにあやかったようにも思います。

※関連記事:→岐阜城登城記!その眺めから分る信長の境地


現在も本丸跡の石垣などの遺構が残されております。




光秀が築城してきた城は現存している福知山城や亀山城にしても、織豊期から江戸時代を経て度々改修(時に大規模な)が行われております。




ただ、この周山城は光秀亡きあとはあまり顧みられることなくそのまま放置されたお陰で、手付かずで当時の姿を残しています。




石垣の多くは崩れてしまっていますが、6m近い高さに積み上げられた石垣を現在も見ることが出来ます。天守が存在していたかは確認をするすべはありませんが、天守台付近には当時忍ばせる大量の瓦が落ちており天守の存在を想像させますね。




以上、明智光秀ゆかりの城のご紹介です。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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