島津斉彬の死因について。斉彬の死因については「砒素」による暗殺説から食中毒による急死、「コレラ」「ビブリオ菌」「赤痢」等が疑われています。斉彬は大藩薩摩の国主です。当然斉彬指名の「優秀な御殿医」が治療を施しその容態については詳細に記録が残されています。斉彬の死因について。本当に「コレラ」なのか?

斉彬のカルテ

島津斉彬の突然の死。それは当の本人を含め誰もが予期していなかった事だと思います。斉彬には蘭方医坪井為春が御殿医として仕えており、その容態を書き残しています。




前回は「斉彬の死の時期」や「家族関係」から暗殺説を考察してきましたが、今回はそのいわば斉彬の「カルテ」から死因を探っていきたいと思います。



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斉彬の御殿医「坪井為春」

斉彬と言えば「蘭癖」で良く知られています。その斉彬の御殿医はやはり蘭方医「坪井為春(芳洲)」です。




坪井為春は文政7年(1824年)米沢に産まれます。父は郷医の大木松翁。上杉家侍医の堀内忠亮の弟子となった翌年、江戸へ上ると堀内忠亮の友人でもあった坪井信道の養子となります。




為春の養父である坪井信道の弟子には後に大阪大学医学部・慶応義塾大学医学部の祖とも言える「適塾」を開き初代塾頭となった緒方洪庵や日本における「化学」の祖とも言える川本幸民等がおります。坪井為春は当時当代随一と言っても過言ではない一流の蘭方医であった坪井信道の信頼を得てその薫陶を受けています。当然、坪井為春自身も一流の蘭学者であった事は間違いありません。




斉彬自身は江戸で産まれ、そして藩主に就任するまで一度も薩摩藩へお国入りはありませんでした。ただ、その長い江戸暮らしの中で坪井為春と出会い御殿医としたものと思われます。

斉彬の七日間闘病

島津斉彬は安政5年(1858年)7月8日所謂「卒兵上京」の訓練のため、自ら陣頭指揮を執り新式銃三千丁を準備した三千の薩兵を動員し天保山麓で大規模な洋式調練を実施します。真夏の太陽がギラつく炎天下でしたが、斉彬は日傘も差さず、自ら馬を駆り陣頭指揮を執ったと言います。




この時は誰も、勿論斉彬自身も、7日後に臨終を迎えるとは思っていなかったでしょう。斉彬はその「天保山の洋式調練」の翌日に発病します。その様子は前述の「御殿医」である坪井為春が「カルテ」に書き残しています。



  • 7月9日
  • この日は発熱があり、斉彬自身は腹痛と「便が出そうで出ない」という症状を訴えています。

  • 7月10日
  • 前日からの熱が上がります。高熱を発し、やはり腹痛、そして下痢の症状が出ています。

  • 7月11日
  • 熱は小康状態となるものの、下痢の症状が酷くなります。「カルテ」には40回以上トイレと寝所を行ったり来たりという様子が残されています。

  • 7月12日
  • 下痢は治まる事なく、血便の症状も現れます。熱も下がらず、下痢も止まらない。

  • 7月13日
  • ここで漸く熱が下がり始めます。下痢は続いているものの、回数は減り(といっても1時間に1回以上ですが・・・)、峠は越えたと考えている様子が記載されています。

  • 7月14日
  • 熱は下がったものの血便、そして消化されていない食物がそのまま排便されます。消化されていないという事は身体に栄養が吸収されていない。「御音声御力無」と声にも力がなくなり、「死」を予感させるような容態です。

  • 7月15日
  • 斉彬はこの日一瞬体調が戻り小康状態となります。ただ、斉彬自身は己の死期を悟っていたようでもあります。夕刻からは衰弱著しく、そのまま亡くなります。死の床で、弟の久光を呼び後事を託します。享年50歳。

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死因は本当にコレラ?

坪井為春は斉彬が亡くなった後にその死因について「コレラ」であったと書き残しています。確かに当時コレラは世界的な大流行、そして九州でも正に感染が増えていました。

日本、そして九州でのコレラ流行

コレラの大流行の歴史は意外と新しく世界的な大流行は19世紀に入ってから。日本にも斉彬が亡くなった安政5年(1858年)から3年にわたり大流行となります。各種文献によってその多いものでは10万人を超える死者を出したとされておりその被害はかなり幅があるのですが、「三日古呂利」といった表現が残っている事からも当時の人々に怖れられたいたのは間違いない所だと思います。



「コレラに感染したら3日で死ぬ」



ただ、コレラは確かに致死性の高い感染症ではありますが、実は当時であっては必ず「死に至る病」ではないのです。




コレラにおいて直接の死亡原因になるのは、大量の下痢と嘔吐による水と電解質の損失によっておきる脱水症状のため、それを踏まえて治療を施せば助かる可能性が高い病です。




九州は海外に唯一開かれていた「出島」があった事からも蘭学が盛んな土地柄ですが、当時既に幕名で長崎海軍伝習所には日本初の「医学」を教える「医学伝習所」も開設されています。医学伝習所は長崎大学医学部の前身とも言える組織がありオランダ人軍医ポンぺが教授として招かれています。そして医学伝習を開始した日は長崎大学の開学記念日とされています。



安政4(1857)年11月12日,オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが,幕府医官松本良順をはじめとする12名に対し,オランダ語による医学講義を開始した。この医学部の起源である医学伝習所の設置が長崎大学の創基である。



このポンぺはまさに斉彬死の年である安政5年(1858年)に長崎市内で蔓延したコレラの治療に多大な功績を挙げています。因みに、コレラは感染力が強く、その治療に当たっている人間にも感染する可能性が高い病です。自身もコレラに感染してはいますが自ら治療し生き残っています。

斉彬の死因はコレラではなくて赤痢!?

さて、斉彬の「死因」とされたコレラですが、本当に「コレラ」なのでしょうか?前述の通り「コレラ」で死に至る理由は激しい「下痢」と「嘔吐」による「脱水症状」です。確かに、斉彬自身も「激しい下痢」に襲われてはいますが、特徴的な症状である「嘔吐」がありません。




因みに、「砒素中毒」の症状は「コレラ」と似ておりコレラが否定されるのであれば「砒素」も否定され得ると思います。



※関連記事:→斉彬は暗殺されたのか?その理由は?


「三日古呂利」の渾名されるコレラですが斉彬自身は7日間闘病しています。




赤痢の特徴的な症状である「高熱」「発熱」「血便」「腹痛」は斉彬の容態にも類似していると思われます。海軍カレーの父とも言われる高木兼寛海軍軍医総監は斉彬のカルテを見て赤痢であると診断をしたと伝わります。(暗殺説が広く流布されるまでは赤痢は有力な死因と考えれらていた)




また、コレラであるのであれば初動の治療にも疑問があります。坪井為春はそもそも当初は「コレラ」などといった死に至る病とは考えていなかった節があります。そもそも、コレラであれば治療者である坪井為春自身含め周辺にもその感染リスクは非常に高いのですが、そういった対策は為されていません。

蘭方医と漢方医・学問と実戦

坪井為春は優秀な「蘭学者」であった事は疑いようがありません。
ただ、



「名監督、必ずしも名選手に非ず」

「私は戦はダメでした」



学問や論理と実践は異なります。これは「医術」に限りません。




日本海軍きっての「切れ者」とカミソリと綽名された日本海軍最後の大将井上成美は戦が下手でした。一方で「教育者」としては非常に先見性のある優れた人物でした。坪井為春もまた、「実践より学問」の人物であったのかもしれません。




因みに、余談ではありますが、斉彬を高く評価していた阿部正弘は「西洋技術」の導入に積極的であった一方、自らは蘭方医の治療を拒み、専ら伝統的な漢方での治療を好んだとされます。




以上、斉彬の死因は?コレラ?赤痢?砒素中毒?でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

※参考:「明治維新という過ち( 毎日ワンズ)」「命もいらず名もいらず(ワック)」「薬で読み解く江戸の事件誌(東洋経済新報社)」「大河ドラマ翔ぶが如く」等

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