西郷パークス(ハリー・パークス)の会談について。パークスは幕末から明治にかけて18年間駐日公使を務めています。アーネスト-サトウと並んで幕末期の英国外交官としては割と名前は知られています。慶応2年(1866年)6月には島津久光・忠義父子、そして西郷と通訳松木弘安(寺島宗則)を交え会談。粗野な一面もあったのですがその理由とパークス・西郷会談の様子について。

西郷・パークス会談前後の情勢

長州藩の苦境は所謂「八月十八日政変」に始まります。ここから長州藩は日本国内で「孤立」していくのですが、馬関戦争を経てその「孤立」は日本国内に留まらないように。

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対日外交の主導権

元治元年(1864年)、英米仏蘭四国連合艦隊は下関攻撃の後に独自の対日政策を取る事になります。






既に蘭国には昔日の勢いはなく、また米国は南北戦争(1861年-1865年)の際中という事もあり主導権を発揮する事が来ませんでした。




対日政策の主導権を握るのはビクトリア朝期であり「黄金時代」を迎えていた英国、そしてナポレオン三世率いる第二帝政期にあった仏国と言う事になります。




英国は時期によって多少の濃淡はありますが基本的には薩摩や長州といった雄藩との関係を重視。まあ、倒幕派にも佐幕派にも武器を融通しているので、「節操がない」とも言えるかもしれませんが・・・。倒幕に燃える長州は下関での密貿易で武器商人として名高い英国のグラバーから大量の武器弾薬を入手しようとしています。




一方の仏国。




仏国は幕府こそが日本の正当な政府であると考え公使ロッシュは幕府に接近。仏国と幕府は蜜月関係を築きます。




そして、その幕府に対して反旗を鮮明にしている長州に対しては間接的に圧力をかけます。




慶応元年(1865年)5月。




先の馬関戦争に参加した英米仏蘭は「四国共同覚書」を作成。この覚書作成には仏の公使ロッシュが積極的に関与しています。



  • 内戦に対する厳正中立
  • 内政不干渉
  • 密貿易禁止
  • (開港場以外での貿易の禁止)



当時開港している港は長崎・横浜・函館の三港のみ。
(神戸は勅許が降りていない)




これは簡単に言えば、




下関で長州に武器弾薬を売るような真似はするなよ?




と、いう三カ国、特に仏が英国に釘を刺したという事ですね。薩英戦争や馬関戦争の後に、英国が薩長に接近している事を警戒していました。
・・・二枚舌三枚舌外交は英国の十八番ですけど。

薩長同盟、倒幕への道

孤立する長州は救ったのが坂本龍馬。薩長同盟の締結で「倒幕」の意思を固めます。しかし、それでも尚その戦力差は幕府に分があります。




西郷は英国に留学していた五代才助(友厚)を登用して、藩の近代化、(まさに富国強兵、殖産興業)を実施。




英国式軍隊の調練に励みます。




一方幕府もまた生糸貿易の独占的な商いを仏に認める一方で、その代わり軍艦や仏式軍隊の調練を進めていました。




薩摩と英国との関係は薩英戦争以降良好に推移してはいましたが、一度、英国をしっかりと「抱き込む」必要を感じた西郷は慶応2年(1866年)6月。




下関の武器商人グラバーを通して英国公使パークスと英国艦隊クーパー提督を薩摩へと招く事にします。




有り体に言えば・・・。




接待ですね。

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パークスの前半生

ハリー・パークスは慶応元年(1865年)、前任者でありまた後見人・上司でもあったオールコックから駐日公使を引き継ぎます。駐日公使の前は上海領事を務めていました。「外交官」と言えば皆さんはどういうイメージを持ちますか?





「洗練されたエリート」



一般的なイメージはそんなところではないでしょうか。しかし、パークスは決してエリートではありませんでした。しかも、結構な苦労人でもあります。




パークスについては「横柄である」といったよろしくない評判もありますが、それは当時世界の海で跳梁跋扈していた英国をはじめとする列強全体に言える「傲慢さ」だけではなく、彼の半生が「必ずしも恵まれていなかった」事に起因する部分もあるのではと感じます。

パークスはエリートではない

パークスは1828年に、鉄工城を経営していた両親の元イングランドに産まれます。奇しくも、西郷とはほぼ1月違いの同じ年ですね。




幼くして両親を亡くし、叔父に引き取られます。その後、その叔父も亡くなり親戚を頼って中国に渡ります。ここで彼の人生は拓ける事になります。




余談ですが、パークスは英国では「グラマースクール」で学んでいます。英国は厳しい階級社会であり、貴族や有力者の子弟は、



「パブリックスクール」
(イートン校やハロー高といった寄宿生の高校)



で学び、オックスフォードやケンブリッジに進みます。もし、英国に残っていたとしても「エリート」とは縁遠いキャリアを歩んだ事になると思います。

中国で活躍

親戚を頼って13歳の時に道光帝治世下の清国へとやってきます。マカオで中国語の勉強をする傍らイギリス領事館に採用されて通訳として働きます。




この時15歳。




この思春期の多感な時期にアヘン戦争を目撃し、さらに、英国をはじめとする列強の清国植民地化を目撃、さらにはその先兵としても活躍。




現代からその19世紀中庸の清国を見れば、



「列強による清国半植民地化」



と、一言で片付いてしまいますが、清国や清国臣民が常に何処でも一方的に列強にいいようにやられていた訳ではありません。全体ではともかく、個別の話で言えば「列強の外交官や軍人、商人」も命の危険を感じたり、あるいは殺害されたりした者もいた事でしょう。




余談ですが「生麦事件」の後にもし薩摩の過激派が一念発起して「横浜の外国人を皆殺し」と決意すれば出来たかもしれません。勿論、その後は「報復」があるでしょうが、死んでしまってから報復しても生き返れるワケではありませんからね。




パークス自身もまた清国政府に捕らえられて投獄された経験を持っています。




パークスの働きは時の上海領事事オールコック(駐日公使としてはパークスの前任者)の目に留まり、上海領事を務めるまでになっています。

西郷とパークスの会談

さて、オールコックから駐日公使を引き継いだパークス。この頃英国本国でも「幕府から政権が朝廷へと移る」という認識に変わりつつありました。西郷・パークス会談に通訳として参加している松木弘安(寺島宗則)は英国滞在中に、遠くない将来幕府から帝に政権が返上される旨を説いていた事も大きかった。しかし、この会談の雰囲気は決して「良い」ものではなかった。

脚の長さ

パークスと西郷、島津久光や忠義との会談の雰囲気は「友好的」と言えるものではありませんでした。




これは当時の国際情勢を考えれば致し方ない部分もあるかもしれませんね。




英国は世界の海で跳梁跋扈、植民地帝国を築いていましたが、文化文明の異なる地域で硬軟織り交ぜた外交を展開するには「気合い」が必要です。



「自分達は優れた民族である」



こういった意識で自身を奮い立たせなければ遠い異国で不安と恐怖に打ち勝つ事は難しい部分もあるでしょう。
(パークスの上司でもあり前任者でもあるオールコックは「日本人は(自分達と比して)劣等民族である」と書き残している)




前述の通りパークスは中国での経験もあり、



「舐められたらイカン」



と、いった意識もあった事だと思います。




また、今回の「パークスと西郷・島津久光忠義父子」の会談は薩摩からの「接待」。西郷はこの接待に関して西洋の文化を調べて、「西洋風の接待」を実施しています。
(最も、涙ぐましい努力の跡は見えても、一流の西洋料理までは達しなかった模様・・・)




そして、英国は「薩摩に恩を売る」立場でもあります。



パークスは西郷に対して脚をテーブルの上に乗せて話をします。




暫くは黙認したのち、西郷もまたパークスと同じように脚をテーブルの上に投げ出します。
パークスは怒りますが・・・。



「お互い無礼な事はやめましょうや」



この一言でパークスは謝罪し、態度を改めたと言います。




西郷の身長は178cm。




西郷の事は彼と接した外国人も、



「大きな男だ」



と、感じていたと言います。
西郷の脚が短かったら・・・。




この会談の雰囲気は悪いまま終わってしまった!(かもしれない・・・)
(徳川慶喜150cm、高杉晋作160cm、伊藤博文152cm)




以上、西郷とパークス会談の鍵は「脚」にあるについて。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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→「宝島事件」英国と薩摩最初の戦争?