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明智光秀と松永久秀、そして荒木村重の三人はいずれも信長に反旗を翻しています。しかし、光秀以外の二人は鎮圧されて松永久秀は信貴山城で討死。荒木村重は討死は免れますが有岡城は落城し村重は道糞に。しかし、この三人が連携していたら?いや、光秀にはその布石があった?
明智光秀に先行した松永久秀
明智光秀の「本能寺の変(1582年)」は日本のみならず世界史的な大事件でもあります。光秀謀反の理由に関しては諸説ありますが、そもそも光秀に勝算、いや「勝機」はあったのでしょうか?
結果的には秀吉の「中国大返し」「山崎の戦い」での活躍で敢無く敗北。
秀吉、鮮やかすぎ。
しかし、この秀吉の活躍を置いておいても、細川・筒井など光秀が頼みとしていた諸将とも連携出来ていないこともあり、そもそも「勝算」は薄かったと個人的には感じております。

しかし、あと5年早く、いやあと5年遅ければ!?そう、荒木村重の謀反による「有岡城の戦い(1578年)」と松永久秀の謀反「信貴山城の戦い(1577年)」が、あと5年遅く起っていれば或いは?
松永久秀は信長のお気に入り
松永久秀と言えば、信長が久秀を評して語ったとされる「三悪事」の影響や、その信長を裏切っての「爆死」、そして何より「信長の野望」での全武将トップクラスの凄まじい智謀と裏切り補正のため、「梟雄」というイメージが強い。
しかし、松永久秀の「梟雄」のイメージは67年の生涯のうち、その最後の10年ほど。
三悪事についても、
- 将軍暗殺
- 三好家乗っ取り
- 東大寺焼き討ち
(永禄8年(1565年)5月)
に関しては直接二条御所を攻めたのは三好三人衆(三好長逸・政康・岩成友通)と嫡男の久通であり、久秀では直接軍勢を率いておりません。
(長慶没(1564年)以降)
ある意味では言いがかりとも言えます。少なくとも三好長慶存命中は謀反は一度も起こしておらず、その死後三好三人衆と対立するに至った際はあわや滅亡の危機に瀕しております。三好家中に混乱をもたらしたとはいえるかもしれませんが「乗っ取った」といえるような情勢ではなかった。
(永禄10年(1567年)11月)
は戦の最中の出来事です。勿論「そんな処で戦をするなんて」ということは言えますが、「そんな処」に本陣を構えたのは、久秀ではなく相手方の三好三人衆であり控えめに言っても「両者の過失」と言えるのではないかと思います。
因みに、この「三悪事」は江戸期に成立した「常山紀談」で信長が家康に久秀を紹介する際の言葉ですが、信長は、
「コイツ悪い奴だろ?」
という趣旨で言ったのではなく、
「コイツ、凄い奴だろ?」
という、どちらかと言えば「誉め言葉」であったように思います。
もはや有名なお話ですが信長は久秀をカナリ気に入っていた節がありますからね。
それは同じ茶道を嗜む者同士という部分もありますが、久秀が決して高い身分ではない(商人出身とも)にも関わらず、室町幕府という「保守的」な権力機構の中枢に入り込む才覚、そしてその「保守的」な権力機構にいながら、旧来の価値観には囚われない柔軟な思考ができる部分を、信長自身の「師」でもある斎藤道三に重ねていたようにも感じます。
最近の研究では斎藤道三と松永久秀は同郷(西岡出身)であったとも言われているそうです。
明智光秀と松永久秀の関係
松永久秀と明智光秀が「連携していた」というような証拠のようなものは残念ながら現状はありません。
しかし、明智光秀は信長の上洛(1568年)後は事実上幕臣兼信長家臣のような立ち位置であり、また松永久秀に関しても「将軍足利義輝暗殺」に(消極的ながらも)与したものの、信長の上洛に協力し、義輝実弟で15代将軍義昭の元で幕臣に収まっております。
松永久秀もまた幕臣兼信長の家臣(同盟者とみる向きも)のような立ち位置であり光秀とは立場がよく似ている。さらに、大和国で松永久秀と対立していた筒井順慶との和議を光秀と佐久間信盛が斡旋しています。
(明智光秀は筒井順慶に話をする側でしたが)
この頃、明智光秀と松永久秀二人には当然接点はあったと考えるのが自然であると思います。
また、前述の通り松永久秀と斎藤道三は「同郷」であるのであれば、美濃斎藤氏に仕えていた明智光秀には親近感があったはず。
その後、明智光秀と松永久秀の運命を分けるのが戦国最強武田信玄の西上作戦(1573年)。
明智光秀は幕臣の立場を捨て、名実共に信長の直臣に、一方の松永久秀は信長を裏切り足利義昭に与します。
結果は・・・わが子晴信は病に倒れてしまい信長包囲網は瓦解。
この時、松永久秀はなんと許されているんですよね。信長が久秀にある種の「シンパシー(共感)」を抱いていたことが一番の要因だとは思いますが、明智光秀もその助命に動いている可能性も十分に考えられると思います。
松永久秀、生き急いだ
松永久秀はその後は「大人しく」しています。
しかし。
武田信玄に唯一対抗出来た越後の毘沙門天の化身上杉謙信に上洛の動きが。
所謂「第三次信長包囲網(1577年)」ですね。

因みに、精々越後一国(動員力2万程度)の上杉など恐れるに足らんという方には信長公のこの言葉を贈ります。
「桶狭間を忘れたか?」
武田と上杉の強さは当時既に「生きる伝説」であり、謙信が長生きだったらどうなっていたか・・・。
この時、松永久秀は再び信長に反旗を翻します。
しかし、頼みの上杉謙信は病没。
毘沙門天は上洛することなく、松永久秀は信貴山城で敗死。
この戦いには明智光秀も加わっていましたが・・・。
「久秀、早まったな」
という気持ちが「色んな意味で」あったのではないかと思います。
明智光秀と荒木村重
明智光秀は自身の娘(さと)を村重の嫡男村次に嫁がせております。村次に嫁がせたのは前述の「信貴山城の戦い(1577年)」前後です。そして、荒木村重が突然謀反に至るのが翌1578年。
荒木村重、間が悪い
松永久秀は拙速であったと思います。上杉謙信は確かに「神様」ではありますが、神様頼みは「人間の努力」あってこそ。
荒木村重謀反が1年早かったら・・・!松永久秀は荒木村重を説得に失敗していたのかな・・・。
松永久秀が抑えていた信貴山城。
そして、有岡城(と、摂津一国、高山右近と中川清秀)が一気に反旗を翻しさらに北陸では上杉謙信が柴田勝家を撃破!
(これは「手取り川の戦い」で史実)
こうなってくると流石の信長のカナリ動揺したと思います。
しかし、悲しいかな。
荒木村重(有岡城)の与力の高山右近(高槻城)、中川清秀(茨木城)は信長説得工作に応じ離脱。
※関連記事:→荒木村重と中川清秀の皮肉な運命
有岡城は1年以上粘るもののついに最後の日を迎えます。
明智光秀が本能寺の変を起こすのは有岡城が落城した約3年後。
荒木村重の謀反は早すぎるし、遅すぎる。
もし、村重の謀反があと2年遅く光秀との連携が可能していれば、その軍勢は軽く本能寺の変の際の光秀の動員力の倍はあったはず。
すると、山崎の戦いも・・・?
明智光秀と松永久秀、荒木村重が同時であれば?
歴史好きなら考えたことがあると思います。もし、明智光秀と松永久秀、そして荒木村重が揃って反旗を翻したら?この三人の反乱そろい踏みが成れば「流れ」が作れてたと思うんですよね。
明智光秀、畿内を制圧
明智光秀は信長家臣団の中では羽柴秀吉と並ぶ出世頭の一人。譜代の有力武将である柴田勝家、丹羽長秀、甲州征伐で功のある有力武将滝川一益などと同じ信長軍団の顔役。
そして、荒木村重もそれらの「顔役武将」と並ぶ有力武将なんですよね。有岡城での敗北と道糞のイメージで一段落ちる感じがしますけどw
摂津一国支配者(事実、従五位下摂津守に任じられている)動員力低く見積もっても1万以上。
さて、ここで冒頭に記載した地図をもう一度確認してみましょう。

赤い文字が実際に謀反を起こした武将。黒い文字が光秀が「連携を期待」したけど連携しなかった(連携出来なかった)武将。
そりゃ、光秀の謀反だけでは「日和見」を決めますよね。本能寺の変は「運よく」成功したものの、光秀の手ごまは自身の軍勢のみ。
しかし、摂津(有岡城)、大和(信貴山城)が同時に光秀に与すれば?
まず、それ程戦に長けていない筒井順慶は日和見なんか出来ない。勇猛果敢な松永久秀が日和見を許すはずもないですからね。
そうなると、次は丹後(宮津城・田辺城)の細川父子。
丹波(明智)摂津(荒木)、大和(松永・筒井)が固まっていれば・・・?
明智光秀の天下も見えてかも・・・?
正直な感想を申し上げますと、ここまでやって明智光秀は畿内を抑えることは出来ても、そこが限界の気もしますが・・・!
因みに、明智光秀、松永久秀、荒木村重の謀反が同時だったらと考えた人は結構いるとは思うのですが、遠藤周作先生もそのお一人。
コチラは中々面白いのでお勧めです。
以上、明智光秀と松永久秀そして荒木村重がもし連携したらでございます。
今宵は此処までに致します。