土岐善麿(ときぜんまろ)と最初の駅伝東海道駅伝徒歩競走」について。駅伝の名付親と言うと武田千代三郎が有名ですが、この読売新聞記者の土岐善麿は「駅伝の生みの親」と言えるかもしれません。そして、土岐善麿は駅伝が原因で読売新聞を去る事に・・・!?土岐善麿(ときぜんまろ)の生涯と駅伝

土岐善麿、読売新聞に就職し歌人として注目される

土岐善麿(ときぜんまろ)は明治18年(1885年)6月、東京浅草の真宗大谷派の寺院等光寺に誕生。等光寺は美濃の名門土岐氏の流れをくんでいると言われます。斎藤道三に追放された土岐頼芸の遺児が父祖を弔うために三河宝飯郡廣石村に創建したのが始まりで江戸時代初期に神田へと移転、明暦の大火(1657年3月)を機に浅草へと移転し現在に至ると伝わります。

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早稲田大学を経て読売新聞へ

善麿は東京府立第一中学校(現在の日比谷高校)を経て早稲田大学英文科に進みます。




幼い頃から僧侶で連歌にも造詣が深かった父の影響を受けていた事もあり、一中時代には歌人金子薫園の主催する「白菊会」に参加し、早稲田大学へ進学後は級友の若山牧水と作歌にも取り組んでいます。




1908年に早稲田大学を卒業すると読売新聞に入社。

土岐善麿と石川啄木

読売新聞入社後も創作活動は社会部の記者として活動する傍らで継続し、明治43年(1910年)に初めて歌集「NAKIWARAI」を「哀果」の号で出版。




NAKIWARAI」は「泣き笑い」であり日常生活の哀感に当時の社会的関心も織り交ぜた歌集なのですが、全て、当時一般にも広まりつつあったローマ字で書かれいる異色の歌集でした。



ローマ字綴りの一首三行書きの歌集。これが、上々の評判を呼びます。



大河姫

当時は第一次「漢字廃止運動」が流行した時期でもあり注目されたようですね。前島密や福沢諭吉も将来における「漢字廃止」を真面目に考えておりました。一時期下火になりますが、敗戦後に再び勢いを増し、割とホントに漢字が無くなるかもしれなかった・・・。あ、あぶねー!

この「NAKIWARAI」は当時朝日新聞に務めていた石川啄木の目にも止まり彼は批評も書いています。石川啄木も同年12月に「一握の砂」を発表して歌壇に登場。



大河姫

石川啄木も当時の知識人らしく「ローマ字の可能性」に注目していました。土岐善麿が「NAKIWARAI」を発表する前年から「ローマ字日記」を書きはじめてます。

土岐善麿はこれを機に石川啄木とも親交を結ぶことになります。二人は意気投合し「樹木と果実」という雑誌の創刊を計画。




しかし、二人の交流は長くは続きませんでした。




石川啄木は明治45年(1912年)4月13日に亡くなります。
享年26歳。




葬儀は土岐善麿の実家でもある東京浅草の等光寺で行われます。この葬儀には夏目漱石も参列し早すぎる啄木の死を悼んでいます。




この後、啄木亡き後の遺族を支援しつつ、遺稿をまとめ「一握の砂」に続く第二歌集「悲しき玩具」を発表し世に送り出しています。また、自ら後書きの執筆もしていますね。



大河姫

今でこそ石川啄木と言えば知らない人はいない歌人ですね。国語の教科書にも載っているし。ただ、生前の石川啄木は注目はされてはいたもののそこまでの名声を獲得していたワケではありませんでした。今日の石川啄木の名声は土岐善麿をはじめとする仲間達が作品を世に送り出してくれたお陰でもあるのです。

土岐善麿、東海道駅伝徒歩競走を実現!しかし・・・クビ!?

土岐善麿は読売新聞社で社会部記者と続けながら創作活動も続け1912年には「黄昏に」を発表。こちらは日本でも急速に増加していた都市労働者の知識人の日常の哀歓を歌っています。また、記者としても優秀であったようで読売新聞社社会部部長にも就任しています。

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東京奠都50年記念駅伝!

明治維新後に都が東京へ移っていますが、東京奠都50周年記念を祝う行事が計画されます。その後援をしていたのが読売新聞社。



大河姫

時は既に平成末期。既に御上が京都にいた時代に生きていた人はいませんが、当時は京都(及び畿内地域)からすると「天子様がいなくなった」という喪失感は相当のものであった。

この記念事業を盛り上げる為に何をするべきか?



「京都も東京も・・・いや日本中が盛り上がるのは・・・?」



ここで、読売新聞社社会部長の土岐善麿が京都から東京までの、



「東海道五十三次を辿るレース」



を発案します。




これに「駅伝」という名前を付けたのが武田千代三郎。




武田千代三郎が駅伝の「名付親」なら土岐善麿は「産みの親」ですね。因みに、この「東海道駅伝徒歩競走」が競技としては最初の「駅伝」とされています。そして、産まれたばかりの「駅伝」の「育ての親」が金栗四三。




東海道駅伝徒歩競走は「京都-東京」間516キロを23区間に分けて、関東・中部・関西の走者23人が走り継ぐレースとして具体化されます。




大正6年(1917年)4月27日午後2時。




残念ながら関西はそれだけの走者を揃える事が出来ず不参加となってしまいましたが京都三条大橋を関東と中部のランナーがスタート。




関東の最終走者は金栗四三が務めますが中部を大きく引き離してゴールの日本橋に到着する頃には市電もストップする程の人だかりで東海道駅伝徒歩競走は大成功を収めます。




・・・収めるのですが・・・。

土岐善麿、読売新聞社を退職

東海道駅伝徒歩競走は大成功を収めるのですが、読売新聞社が想定していた以上に費用がかかってしまい大きく予算をオーバーしてしまいます。




土岐善麿は読売新聞社内でその責任を問われる事になり読売新聞社を退職する事に・・・。




しかし!




大正7年(1918年)に東京朝日新聞へと転職!


大河姫

捨てるあれば拾うあり!・・・なんてね・・・!

土岐善麿は1940年まで東京朝日新聞に籍を置く事になります。

土岐善麿、沈黙の昭和と戦後

明治維新、日清日露戦争、第一次世界大戦、国際連盟の常任理事国、世界三大海軍。坂の上を雲を目指して登った先の眺めに気を良くした我が日本。この後、その坂道を転げ落ちる事に。

自由主義者として批判

第一次世界大戦の反省から世界的にも国際協調と軍縮が叫ばれ、際限のない建艦競争是正のための軍縮条約の締結など一定の成果を挙げる事は出来ていたのですが、1929年の世界恐慌以降そういった雰囲気は一変します。




日本も御多分に漏れず軍靴の足音が聞こえるように。




土岐善麿は「黄昏に」の頃から社会主義的思想に触れており、その作風は社会意識に目覚めた自由主義的知識人といった趣があったのですがこれが批判を受けるようになります。



大河姫

まあ、朝日新聞だけじゃないけど皆イケイケドンドンみたいな風潮にね・・・。

昭和15年(1940年)に「六月」を出すと朝日新聞を退社。「六月」は暗い時代の知識人の良心と孤独を歌った歌集です。戦争中は沈黙を守り続ける事を余儀なくされ、田安宗武の研究に取り組みます。

孤高の自由主義者として

1945年8月15日。




敗戦。




戦後は戦時中に発表した「田安宗武」て学士院賞を受賞し、また母校の早稲田大学の教授にも就任。中国の詩人杜甫の研究といった古典研究と同時に所謂新作能でも知られています。




あと特筆すべきは校歌。




全国の小中学校中心に100校近い学校の校歌を作詞しています。私の出身校はありませんでしたが隣の学区の小学校の校歌は土岐善麿先生の作詞でした。




そして昭和もいよいよ終わりに近づいた昭和55年(1980年)。



「わがために一基の碑をも建つるなかれ」



そう遺言し東京都目黒区下目黒の自宅で亡くなります。




まさに、明治大正昭和という日本史上最も「激動」であった時代を生き抜いた94年の生涯でした。




以上、土岐善麿とは?東海道駅伝徒歩競走が理由で読売新聞をクビに?でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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