嘉納治五郎はアジア初のIOC委員であり、日本が初めて参加したオリンピックであるストックホルム大会以降5回のオリンピックに参加しています。そして、嘉納治五郎最期の仕事として取り組んだのが東京オリンピック誘致1940年でした。嘉納治五郎と幻の東京オリンピック1940年大会について。

嘉納治五郎の来歴

嘉納治五郎と言えば講道館柔道の創始者であり「柔道の父」として有名ですね。また、「柔道」に限らず初のオリンピック参加(ストックホルム大会)、アジア初のIOC委員、東京オリンピック1940年誘致への尽力など「スポーツ・体育教育の祖」とも言えます。

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勝海舟とも昵懇!?

嘉納治五郎は万延元年(1860年)10月28日摂津国御影村で産まれます。同年代には後の内閣総理大臣加藤高明や義和団事件での北京籠城戦で世界的にも注目された柴五郎がおります。




万延元年と言えばまさに「幕末」ですね。この年「開国」以来初めて日本の使節が太平洋を渡り米国へ到着。ワシントンで「日米修好通商条約」の批准が行われています。




嘉納家は地元では「酒造・廻船問屋」として屈指の商家として知られていました。因みに、嘉納治五郎の父である治郎作は入り婿でしたが非常に優秀だったようで、他にも男兄弟(治五郎にとっては叔父)がいるにも関わらず加納家の跡取りに指名をされていたようです。




ただ、父、治郎作はこれを固辞し、廻船業に携わります。当時の幕府の課題の一つに「海防」がありました。時に関西地域は「都」も近いため海防には力を入れており、この時幕府の役人であった勝海舟との知遇を得ているようです。




御維新が成った後、父治郎作は幕末時代の人脈で明治政府に召し出されることになり、また、治五郎も母が亡くなったのを機に東京へと出る事になります。

柔道との出会い

父治郎作は勝海舟とも昵懇であった事もあり、治五郎少年には英語も学ばせています。




治五郎少年は非常に優秀だったようで、明治8年(1875年)14歳で今の東京大学の前身である「東京開成学校」に入学。そして、充実した学生生活を・・・というワケにはいかなかったようです。



大河姫

明治8年と言えば西郷が下野し「私学校」が盛り上がっている頃。久光様が左大臣を辞して薩摩へ帰った頃でもありますね。

この頃の治五郎少年は「アタマ」は良かったが必ずしも体躯には恵まれていなかった・・・。




何時の時代も思春期の頃は「アタマ」よりも「身体」つまり強い奴がエライのです。




どうやら大柄な同級生にいじめられる事も多く、生来負けん気の強かった治五郎少年は忸怩たる想いがあったようです。




しかし。




いじめられてもただでは起きないのが治五郎少年。




今でこそ、柔道も「型」がありますし教本もツベに動画もある時代ですが、当時は口伝が殆どで自ら師匠を見つけて直接学ぶしかありませんでした。




嘉納治五郎はそれを体系化し「柔道」を確立します。




元々は「いじめられた悔しさ」が原動力だったと思うのですが、身体も鍛え技も磨くうちに自分自身の変化にも気付く。



大河姫

度々書いているけど、「殴れないから殴りたい」ワケであって、殴れる相手を殴ってもしょうがないという事かな?

ささくれだった心が落ち着いてきます。



大河姫

特に男の場合「強さ」って落ち着きと余裕に繋がると思うのです。余裕の源泉は「地位名誉カネ」よりも「強さ(身体的)」だったりする事多いかも。昔、「いざとなったらガチで全員素手で殺れるワケ」だからいちいち細かい事に腹は立たないんだよと穏やかな笑顔で言われた時に背筋が凍った記憶・・・。

また、相手を相手と組合う中で「お互い」を高め合う事が出来る事、そして勝つためには「相手を観察する事」の大切さに気付き、
これこそ、



「青少年の心身の成長に役立つ!」



と、思い立ち明治15年に「講道館」と「嘉納塾」を設立します。




あ、「青少年の~」と言っておりますがこの時嘉納治五郎先生は21歳




人間は年齢じゃないですね。




立派な人は若干二十歳で天命を知り、ダメな奴は五十になっても寝ているんだろうなぁ。




嘉納治五郎がこの時辿り着いた最初の理念が、



「柔よく剛を制す」



で、これが発展して「精力善用」「利他共栄」に繋がっていきます。

嘉納治五郎とオリンピックの出会い

大学を卒業後は学習院教師、海外留学を経て第五高等中学校(熊本大学)校長、明治26年(1893年)には東京高等師範学校(筑波大学)の校長に就任。そこで、嘉納治五郎は自らが確立した「柔道」だけではなく、長距離走と水泳には特に力を入れます。

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初のIOC委員

日本は日清・日露戦争での勝利や義和団事件での活躍などもあり世界的にも注目されていました。




近代五輪の祖でもあるクーベルタン男爵も、日本の躍進に注目していました。そして、この時既に「教育者」として注目される存在となっていた嘉納治五郎に白羽の矢が立ちます。




嘉納治五郎は柔道の創設やスポーツ振興への努力だけではなく、私財を投じて弘文学院を設立し清国からの留学生を積極的に受け容れていました。そういった「国籍や文化を超えて」教育に携わる姿勢も注目された理由のように感じます。




フランス大使ジェラールからIOC委員就任とストックホルムオリムピック参加を打診されると快諾。

オリンピックに参加

嘉納治五郎は1912年に開催された第5回ストックホルムオリンピックに金栗四三と三島弥彦を伴い参加します。以降、第7回アントワープオリンピック(1920年)、第9回アムステルダムオリンピック(1928年)、日本選手が大活躍をして世界を沸かせた第10回ロサンゼルスオリンピック(1932年)、初の聖火リレーが行われた第11回ベルリンオリンピック(1936年)に参加。
※パリオリンピックは体調不良のため不参加。




この期間に日本は世界大戦の戦勝国となり国際連盟常任理事国入りを果たし、名実ともに世界の列強となります。一方で、関東大震災、世界恐慌を経ての政情不安と満州事変、国際連盟脱退と厳しい時代を迎えることに。




そのような時代背景の中で出て来たのが、



「日本にもオリンピックを招致出来ないか?」



嘉納治五郎はこれを日本スポーツ界の新たな一歩そして自身の人生の集大成にと考えていました。

東京オリンピックと嘉納治五郎

東京オリンピックを最初に誘致しようと言いだしたのは東京市長として人気も高かった永田秀次郎。1930年に「二度目」の東京市長に就任した永田は「関東大震災からの復興」の集大成の意味も込めて、オリンピック誘致を決意します。




永田は関東大震災時の東京市長でもありました。



大河姫

震災からの復興。2020年の東京オリンピックとの共通点を指摘する声もあります。

東京オリンピック開催決定!

東京にオリンピックを誘致する。



大河姫

この頃に日本で一番元気があった(人口が多かった)のは東京ではなくて大阪なのです。

永田秀次郎の想いは1931年に、



「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」



が東京市会において満場一致で可決されるという形で実を結びます。




嘉納治五郎は既に70歳を超えていましたが、東京オリンピック(1940年)誘致に向けて精力的に活動をします。




嘉納治五郎は日本最初のIOC委員として、オリンピックへの参加は勿論、IOC委員会にも積極的に参加して世界各国に多くの知己を得ています。




彼は「柔道家」ですが、欧米人を相手に求められれば気軽に「実演」をする事も多く、身体の小さい東洋人が大きな欧米人をヒョイと投げる様は評判で、また生来の気さくな性格もあって尊敬を集めていました。




また、スポーツ分野での日本の躍進もこれを後押しします。




1928年に日本最初の金メダリスト織田幹雄(陸上)と鶴田義行(競泳)が誕生すると、ロサンゼルスオリンピック(1932年)では7つの金メダルを獲得(国別金メダル獲得数で5位)するなど、アジアのスポーツ一等国を世界に印象付けます。




戦前はどうしても「オリンピック」と言うと欧米列強が中心でありその欧州から日本までは2週間以上もかかるのですが、



「そんな遠方の日本から多くの選手が参加して、活躍している」



近代オリンピックの祖でもあるクーベルタンや当時のIOC委員長でもあるラトゥールにとっても真のオリンピックの国際化は悲願でもあります。




嘉納治五郎や彼に次いでIOC委員となった副島道正の精力的な活動もあり各国から支持を増やしていきます。当時、東京のライバルと見込まれていたのがイタリアのローマとフィンランドのヘルシンキ。ローマは紆余曲折を経て撤退したため、ヘルシンキとの一騎討ちとなります。



「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」



1936年に行われたIOC委員会で嘉納治五郎は演説し、東京36票、ヘルシンキ27票で東京オリンピック開催が決定します。

東京オリンピックへの夢

東京オリンピック開催は決定をみますが1937年日中戦争が勃発。




日本は一気に「戦時下」の様相を色濃くしていきます。遅々として進まないスタジアムの建設といった技術的課題、「日中戦争」「満州国の扱い」といった政治的な問題も顕在化しつつありました。




日本は本当に東京オリンピック開催できるのかといった疑問だIOC内部でも出てきます。




嘉納治五郎は老体に鞭打って東京オリンピック開催に奔走します。



「オリンピックは政治的な影響を受けるべきではない」



嘉納治五郎は東京オリンピック開催か返上かが遡上に上がる1938年3月のIOCカイロ総会で演説します。その甲斐あってカイロ総会では「東京オリンピック開催」が正式に承認される事に。




嘉納治五郎は日本の支持に動いてくれた各国のIOC委員に挨拶をした後帰国の途につきます。




しかし、乗船した氷川丸が横浜に入港する直前、




1938年5月4日、肺炎の為亡くなります。
享年77歳。




日本が東京オリンピック開催を返上するのはその3ヶ月後。




嘉納治五郎が、いや嘉納治五郎だけではなく近代オリンピックの祖クーベルタンを始めとする先人達が夢見た、



「オリンピックの国際化」



は、嘉納治五郎の死後四半世紀を経てその新たな一歩を踏み出す事になります。




以上、嘉納治五郎と東京オリンピック1940年について。

大河姫

今宵は此処までに致します。

※参考文献:「幻の東京オリンピック1940年年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)」等

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