嘉納治五郎と勝海舟の関りは治五郎の父である治郎作の時代に遡ります。父と勝海舟の出会いがきっかけで、嘉納治五郎もまた勝海舟も親しく関わる事に。嘉納治五郎が今日「柔道の父」「日本の体育の父」と称されるのも、勝海舟の影響も大きい。嘉納治五郎と勝海舟の関係について。
嘉納治五郎の父治郎作と勝海舟
嘉納家は現在でも酒造メーカーとして著名な「菊正宗酒造」「白鶴酒造」の母体となった名門。日本を代表する酒処「灘五郷」の一つ御影郷で江戸時代初期に酒造業に進出。灘五郷は江戸時代中期にはそれまで日本の酒造の中心であった所謂「摂泉十二郷」を凌駕するまでに成長し嘉納家も当地では屈指の名門として知られています。
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父、嘉納治郎作も人物である
嘉納治五郎の父治郎作は嘉納治作(治五郎の祖父)の長女定子(治五郎の母)の婿養子です。
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名門商家の婿養子というと何を想像するか?
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当時は「商い」であっても「家」が基本です。脈々と男子が相続していくものですが、家長に男子がなかった場合や、余りにも息子がテイタラクの場合に娘に丁稚上がりの優秀な番頭を婿養子として相続させるなんて事が良くありました。
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時代劇なんかでもよく描かれるアレですね。
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「旦那様は婿養子なもんで奥様に頭が上がらないねぇ(笑)」
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みたいなヤツです。
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治郎作も嘉納家に幼い頃から奉公していて、男子のない嘉納家の跡取りに白羽の矢が・・・と、いうワケではないんですね。
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嘉納家には男子もあり、さらに言えば治郎作も商人でさえありません。
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治郎作は近江坂本村の日吉神社社司生源寺希烈(しょうげんじまれやす)の次男。日吉神社は全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社ですね。治郎作もまた「名門」の男子としての当代一流の教養を身に付けてた後に諸国漫遊の旅に出ます。
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江戸時代は「商人の時代」でもあり、豪商たちは文化の担い手でもありました。灘御影村で酒造家嘉納治作邸に留まっている間、四書五経の講釈などをしていたのですが、すっかり治郎作の人柄や教養に惚れ込んだ治作が、
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「三顧の礼で婿養子に」
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迎えたいと申し出て長女の定子の娘婿とします。
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治郎作自身にどのような想いがあったのかは分かりませんが、嘉納次郎作は義父の願いを断り、嘉納家宗家を義弟(嘉納家からすれば直系男子)に譲り、自らは嘉納家で酒造事業と並んで中核事業であった廻船事業に取り組む事になります。
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そして、それが勝海舟との縁を結びます。
勝海舟との縁
ペリー来航(1853年)から所謂「幕末」が始まります。
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この頃老中首座を務めていたのが「瓢箪鯰」こと阿部正弘。
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・・・阿部正弘は色々と批判(優柔不断とかね)もありますが、「幕末」を支える人材を登用したという実績は否定のしようがない大きな業績だと思います。
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※関連記事:→阿部正弘と井伊直弼
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阿部正弘は幕臣は勿論、外様大名から果ては町人に至るまで意見を募集。勝海舟の「海防意見書」は阿部正弘の目に留まり、晴れて幕府の役人となります。
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幕府にとって喫緊の課題は「海防」。江戸は勿論ではあるのですが「御上」がおわす都に近い大阪湾の防衛も非常に重要でした。勝海舟も大阪湾の見分を実施。
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廻船事業に従事していた嘉納次郎作はこの頃に知遇を得ていると思われます。また、後に勝海舟が設計する事になる「和田岬砲台(1864年完成)」の建築も支援するなどその関係を深めていきます。
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因みに、嘉納治五郎には姉がいます。
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姉は「勝子」と命名され、後に海の伊能忠敬と言われた海洋測量の第一人者柳楢悦の妻となりますが、その名前は勿論、「勝海舟」にあやかっての事です。一説によると、勝海舟が嘉納家を訪れたその日に産まれたからとも。
嘉納治五郎と勝海舟
勝海舟は咸臨丸で渡米(1860年)している頃に嘉納治五郎が誕生。帰国後は軍艦奉行、失脚、軍艦奉行再任、そして江戸無血開城・・・。
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この辺りは「翔ぶが如く-江戸無血開城-」か「西郷どん-江戸無血開城-」を参照頂くとして・・・!
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嘉納治五郎と勝海舟の関わりについて紐解いていきます。
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勝海舟に進路相談
嘉納治五郎は父治郎作と勝海舟の縁もあり維新後上京します。
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治郎作は嘉納家が跡取り養子(直系男子がいるにも関わらず)に迎えたいと熱望しただけに、ただの教養人ではなく外国との貿易のための商社設立や後に日本の基幹産業にもなる造船業の黎明期を支えるなど視野の広い人物です。息子の治五郎には英語の学習も勧めていますね。
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嘉納治五郎は官立東京開成学を卒業し学習院で教鞭を執るようになるのですが、この頃に今後の針路について勝海舟から重要な示唆を受けています。
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「暫くは学問に没頭しようかと思う」
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勝海舟はそう述べる嘉納治五郎(当時二十歳そこそこ)に問います。
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「学者になろうとするのか?それとも社会で事を為すのか?」
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勿論後者(社会で事を為す)であると答えた嘉納治五郎に勝海舟は、
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「いけないね・・・それでは学者になってしまう」
「事をなしつつ学問をなすべき」
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と、忠告します。
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この言葉は嘉納治五郎の魂に響き、嘉納治五郎の「実践的な教育」を行っていく基盤になります。
勝海舟と弘文学院
嘉納治五郎は「講道館の設立(1882年若干22歳)」や「東洋初のIOC委員(1909年)」、「灘中学設立(1927年)」など日本の近代教育に目覚ましい功績を残しています。
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しかし、もう一つ忘れてはならないのは中国からの留学生支援ですね。
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清朝からの留学生受け入れのために弘文学院(宏文学院)設立に関わり私財を投じて積極的に支援します。明治末期には清国の混乱もあり閉校となってしまうのですが、1896年~1909年までの間で七千人を超える留学生を受け入れています。
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この留学生の中には後に「阿Q正伝」「狂人日記」を執筆し中国近代文学史の英雄魯迅もいました。
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私は嘉納治五郎が私財を投じてでも留学生を支援していたのは勝海舟の影響も大きいと思います。
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勝海舟は日清戦争にも反対で、当時から戦勝に浮かれる日本国民の安易な欧米列強の植民地政策追従に批判的でした。清国北洋艦隊司令丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際には「立派な最期である」と新聞に追悼文まで寄せています。
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後に、
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「志那は昔から日本の師であり、東洋の事は東洋だけでやるに限る。日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画した(氷川清話)」
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と、語っています。
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以上、嘉納治五郎の人生に大きな影響を与えた勝海舟との関係について。

今宵は此処までに致します。
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