二階堂トクヨは明治大正期を代表する女子体育の教育者。女子スポーツへの理解など皆無に近かった時代に、海外の優れた女子体育を日本に持ち込み教えたのが二階堂トクヨ二階堂トクヨの人生と永井道明との師弟関係について。

二階堂トクヨ体育教師へ

明治大正期の女子教育者というと津田梅子(津田塾大学)や山川捨松あるいは新島襄の妻新島八重などが良く知られておりますが、二階堂トクヨも特に女子体育の分野において特筆すべき足跡を残しています。しかし、決してその道は平坦ではありません。二階堂トクヨの来歴と最初の試練について。

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最初の試練-受験資格!-

個人的には明治維新には「懐疑的」な部分もあるのですけど「女子教育」に関しては評価出来るかな。欧米使節団(1871年-1873年9月)に随行してアメリカへ留学した津田梅子に日本から帰国命令が出る直前の明治13年(1880年)12月5日。二階堂トクヨは宮城県志田郡三本木町に産まれます。




勉強熱心だったトクヨ少女は15歳(1895年)の時に尋常小学校本科の准教員免許を得ます。さらに進学して正教員の免許を取得しようと決意。




幸い、トクヨは学問には自信がありました。




しかし。




郷里の宮城県師範学校がこの年から「女子部」を廃止してしまいます。宮城県の隣福島県には福島女子師範学校があるのですが、この時代今で言うところの「学区制」のような制度があり宮城県民であるトクヨはこのままでは入学する事が出来ませんでした。




当時まだ15歳のトクヨは諦めません。




福島県安達郡の士族出身で福島民報社の社長をしていた小笠原貞信に窮状を訴える手紙を書き自分を養女にしてもらえるように頼みます。因みに、小笠原貞信と二階堂トクヨは一面識もありません。




15歳の少女の訴えを意気に感じたのでしょうね。




小笠原貞信は二階堂トクヨの願いを聞き入れ、



「小笠原トクヨ」



として、無事福島県師範学校に入学します。
(後に二階堂姓に復します)




福島師範学校を卒業して小学校正教員免許を取得しつつ、高等師範学校として設立された東京女子高等師範学校への入学を目指します。



「師範学校」



同じ「師範学校では」とも思われてしまいますが、今で言うと「(尋常)師範学校」は高校、「高等師範学校」は大学のようなイメージをしてもらえればと思います。




実際、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の入学資格には「尋常師範学校2年修了」という条件がありました。ただ、後に「福島師範学校」も学制の変遷を得て新制福島大学となっております。




この時期は同じ「師範学校」でも時期によって随分意味合いや役割が異なっており少々分かり難い部分もありますね。

体育なんて嫌い!

二階堂トクヨというと現在では「女子体育の分野で活躍」した事が知られていますが、
トクヨは当初、



「国語教師」


を目指していました。東京女子高等師範学校時代には国文学者・詩人としても良く知られている尾上柴舟に師事し和歌に凝ります。



大磯の 


浦風なぎし


小夜なかに 


ちいさく見ゆる 


箱根路の野火



自作の和歌ではこちらがお気に入りだったとの事。




東京女子高等師範学校在学中に「教育」「倫理」「体操」「国語」「地理」「歴史」「漢文」の師範学校女子部、高等女学校の教員免許を取得。幕末期の「尊王攘夷」にも大きな影響があった日本外史(頼山陽著漢文で書かれている)を早くから読破する才媛でした。




明治37年(1904年)無事東京女子高等師範学校を意気揚々と卒業した23歳の二階堂トクヨ。




石川県立高等女学校(金沢高女)で教鞭を執る事になるのですが・・・。




此処でまたまた試練がトクヨを襲います。


「体育教師を命じる」


そう。




担当できる教員免許が多かったのが災いしたか!?




希望していた国語ではなく体育教師を拝命します。当時の社会情勢としても「体育」は他の科目と比べて一段劣るような扱いがあった事も影響したかもしれません。
(新人には取り敢えず「体育」担当でみないな)




トクヨ自身も体育は好きではなかった。



「これほど下らないものは天下にあるまい」



と、(免許は取得したものの)体育は毛嫌いしていたんですね。




さらに、この時元々丈夫とは言えなかった身体の不調や身内の不幸もありやや自暴自棄となっていたようです。




しかし、与えられた仕事はしっかりしなければならないない。




渋々体育の授業を行っている内にトクヨにある変化が。



「教えている自分の体調が良い」



また、トクヨの授業は生徒たちにも評判が良く、体育の指導に情熱を傾けていくようになります。




明治40年(1907年)に高知県師範学校教諭兼舎監に任命される頃には、担当する授業のコマ19の内18が体育となるまで自他共に認める体育教師に成長します。

二階堂トクヨ、女子体育の第一人者に

明治44年(1911年)3月には30歳で東京女子高等師範学校助教授に就任します。この年日本で初となる「オリンピック選考会」が羽田運動場で行われマラソンの金栗四三と長距離の三島弥彦が代表に選ばれ翌年のストックホルムオリンピックに参加していますね。

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英国での挫折

二階堂トクヨのこれまでの体育における指導と実績を当時の文部省も高く評価。官費での英国留学を命じられます。



助教時代の二階堂トクヨ



トクヨの留学先は名門キングスフィールド体操専門学校。
(他、数校で学んでいます)




校長を務めていたのは二階堂トクヨの師でもあった永井道明も指導を仰いだ、マルチナ・バーグマン=オスターバーグが務めていました。永井道明はマダム・オスターバーグがらスウェーデン体操を伝えられています。




しかし、二階堂トクヨは留学早々大きな挫折を味わう事になります。



英国留学時代



日本の教育は万事欧米列強の制度を輸入しています。明治末期にはとりあえず「カタチ」は近代的な教育制度が整いつつありました。




二階堂トクヨは東京女子高等師範学校、つまり大学、の助教授。



「日本から優秀な助教授が留学してくる・・・教える事などあるのか・・・?」



受け入れる側のキングスフィールド体操専門学校は「助教授の留学生」に戸惑います。そこで、校長マダム・オスターバーグはトクヨの「助教授という肩書」に囚われず、まずはその実力をテストしてみるように提案。



水泳については??


ラクロスについては?


ホッケーについては?


ダンスは?マッサージは??



トクヨにはテストをするまでもありません。そもそも、それら全てトクヨは「知らない」のですから。




キングスフィールド体操専門学校の先生たちは呆れ顔です。



「貴方はいったい生徒に何を教えてきたのか?」



トクヨは赤面し俯く以外にありませんでした。




当時の日本は「体育」というと教師の言う通りに身体を動かす程度の事しか教えていませんでした。




大河姫

「当時の」と書きましたけど、概ね昭和後半までの「体育」は鍛錬的体育の影響を色濃く残していたと思います。私、体育の時間はめっちゃ嫌いだった・・・。トクヨの気持ち分かるw。因みに、大人になって暇になったから運動始めたのですけど、多分私今が一番運動出来ると思う・・・。

しかし!




俯いていても何も始まりません。




キングスフィールド体操専門学校の生活は「鍛錬的体育」中心の日本とは大いに異なりトクヨは文字通りカルチャーショックを受けます。




寄宿舎はホテルのようで栄養バランスを考慮した食事が毎食準備され、清掃スタッフが常に館内を清潔に保ち、兎に角授業に集中出来る環境が整っていました。また、制服も身体が動かしやすいようにと、チュニックが準備されていました。



当時のチュニック

大河姫

日本人は好きだよね。根性論。体育の中に「精神修養」が入ってるんだよね。まあ、いいけど。

トクヨはこの環境を最大限活かし、キングスフィールドで教えられていた「水泳」「クリケット」「ラクロス」「ホッケー」「ダンス」等をマスター。



「貴方はいったい生徒に何を教えてきたのか?」



と、言われてから1年後には教授陣から、



「You are a genius!!!」
(君は天才だ!)



と、言われる位の成長を見せます。



大河姫

クリケットとホッケーを初めて日本に紹介したのはトクヨ。

特に水泳に関しては特筆すべき成長を見せました。水泳の上達に関してはこんなエピソードが残っています。




当時の常識で水泳に関しては身体への負担を考慮して一日30分までといルールがありましたが、トクヨはシレっと1日3時間ほど鍛錬していました。




或る日、それがばれてしまい、



「ルールを破るなら水泳の評価は落第点にします!」



と、叱られてしまいます。



「私は良い評価を得るために此処にいるのではない」



トクヨらしいですね。彼女は自分には時間がない事必死に説明し先生たちを納得させています。




また、この留学生活で自身も改めて感じた「運動の楽しさ」を日本の人達にも伝えたいと強く思うようになります。




しかし、これが日本における師である永井道明との軋轢を生んでしまいます。

永井道明との対立

留学生活を終えて帰国した二階堂トクヨは大正4年(1915年)4月に帰朝。そして、東京女子高等師範学校教授に就任します。




トクヨは自らが英国留学で学んだ事を学生たちに熱心に伝えます。




体操は



「精神に気持ちよく、身体にこころよからしむ」



と教え、日本にはまだほとんどなかったダンスや体操といった各スポーツの各分野を広く研究。しかし、同じマダム・オスターバーグから学んだものの、



「鍛錬的体育」



の色彩を残す指導を行っていた上司の永井道明との対立に発展。トクヨはついに、東京女子高等師範学校を辞職します。




トクヨは帰朝後に、



「官立の女子体育学校設立」



の意見書を出しているのですが、当時の日本の情勢は残念ながら認められませんでした。国が出来ないのならば自分がやる。




トクヨは私財を投じて学校の設立に動きます。

二階堂トクヨ、女子体育の理想を求めて

大正11年(1922年)4月。42歳となっていたトクヨは東京代々木に「二階堂体操塾」を開校します。



大河姫

1922年。600年以上続いたオスマン帝国が消滅した年でもある。

現在の日本女子体育大学ですね。

運動の楽しさを伝える

設立当初の二階堂体操塾



トクヨは自らが留学中に学び体験した「運藤の楽しさ」を生徒たちに伝えます。



この学校ではチャイムが鳴りません。



出席簿もありません。



何の資格も取れません。



しかし、体育の教員としての指導力をつけて卒業させる事は私が責任を持ちます。



設立した翌年には、



「関東大震災」



で、校舎が半壊するなど決して塾の経営は楽ではなかったと言います。しかし、この二階堂体操塾でトクヨの薫陶を受けた生徒たちは全国に羽ばたき体育教師として活躍していきます。



二階堂体操塾の授業



また、日本初の女性オリンピックメダリスト人見絹枝(三期生)を始め多くの運動選手も輩出。



大河姫

土屋太鳳ちゃんも在籍している。(2019年3月)

二階堂トクヨの想いを現代まで伝えています。




以上、二階堂トクヨは実在?永井道明との関係について。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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