ラザロ(フランシスコ・ラザロ)選手はポルトガル代表のマラソン選手として、金栗四三と共にストックホルム五輪に出場。そして、ラザロは近代オリンピック競技で死去した初めての人物です。金栗四三と運命を分けたのは?ラザロ選手と金栗四三とその関係について。
オリンピックマラソン代表ラザロ選手
ストックホルムオリンピックはポルトガルが初めて参加した近代オリンピックです。1896年初めてアテネで開催された近代オリンピックは多少の混乱を伴いながらも参加する国・地域は増えて行きました。ポルトガルは1906年、当時の国王カルロス1世の時代にオリンピック参加を決めますが、カルロス1世自身が1908年2月1日に暗殺をされた影響もあったのか初参加は1912年のストックホルムオリンピックとなります。
※ポルトガルは1910年に革命が起こり王政は廃止され今日(2019年)まで共和制国家となっている。
ラザロ選手の来歴
ラザロ(フランシスコ・ラザロ)は1891年1月21日リスボンに産まれます。金栗四三もそうであったようにラザロも勿論アマチュアのスポーツ選手でした。

ラザロの本業はリスボンの自動車工場で働く大工で仕事場までいつも走って通勤をしていました。
その「速さ」が評判となりマラソン選手にスカウトされると、ポルトガルで開催された三つのマラソン大会で優勝するなど頭角を現します。
ポルトガルの期待も大きく、ストックホルムオリンピックの開会式では旗手を務めています。
また、オリンピックに挑む心境を新聞記者に尋ねられて、
「私は勝つか、私は死ぬのどちらか」
だと、語っています。
過酷なマラソン開催日
1912年7月14日。
ストックホルムオリンピックのマラソン開催日は気温が40度に達して日陰でも32度という高温を計測する記録的は酷暑の中行われました。
ストックホルムは高緯度に多くの見られる亜寒帯湿潤気候に属している地域であり、基本的には夏場であっても平均最高気温は20度強なのですが時期によっては35度近い気温になる事もあります。ただ、40度をというのは「記録的」と言って差し支えない気温ですね。
日本でいうと北海道がほぼストックホルムと同じ「亜寒帯湿潤気候」になるのですが北海道で40度近い気温というのがイメージに近いかなと思います。
結局、我が日本の期待の「韋駄天」で世界記録を保持していた金栗四三をはじめ、出場選手68人中33人が途中棄権をするという過酷なレースとなってしまいます。
ラザロ選手、倒れる
ラザロ選手は30キロ付近で倒れます。
当時も何かあった時はすぐに対応できるように要所要所に医師がおり、ラザロ選手は直ぐに病院へ搬送され夜通しの治療を受けますが、体温は42.1度まで上がっており意識を取り戻す事なく翌朝早朝に亡くなります。
オリンピックスタジアムではポルトガルの国旗が半旗で掲げられました。
また、次の週末、ラザロ選手を追悼する式典が開かれ23,000人が参加します。未亡人となってしまった妻の為に約3,800ドルが集まり、その後、ストックホルムのソレントゥナにある折り返し地点にはラザロの記念碑が置かれました。
死因は当初高温のために激しい脱水症状であると考えられていました。
ラザロ選手の死因を知るコルテサン
ラザロ選手の死因は数年後同じくストックホルムオリンピックで同僚だったアルマンド・コルテサンが当時の様子を語った事で明らかになります。
コルテサンはの短距離走(男子400mと男子800m)の代表選手で産まれもラザロ選手と同じ1891年。しかも、誕生日もラザロ選手と8日しか変わらない1月29日。
なんだか、金栗四三と三島弥彦を思い出しますね。
真相は電解質異常
コルテサンによると、ラザロは日焼けと過度の発汗を防ぐために身体の表面を獣脂で覆っていたと言います。
獣脂の油分が自然な発汗まで妨げて体内で到底身体が耐えられない電解質の不均衡をもたらしてしまったというワケです。
過酷なレースで多くの「棄権者」を出してしまったストックホルムのマラソンではありますが亡くなったのはただ一人、ラザロ選手のみ。
ラザロ選手は脱水症状だけが原因で亡くなったワケではなかった。
スポーツ黎明期の悲劇
ラザロ選手の死はスポーツ黎明期の悲劇なのかなと感じます。当時の人達は自らをある意味では実験台として試行錯誤をしていました。
大河ドラマいだてん第4話で金栗四三は当時流行っていた、
「油抜き(水抜き)走法」
を、試してまったく効果がない処かコンディションが最悪になる事に気付いて、
「自然に従う」
と、いう「真理」に辿り着きます。
金栗四三ももし、あと少しそれに気付く事が出来なかったら、ラザロ選手と同じような運命に陥っていた可能性もあったと思います。
それともう一つ。
先人たちの犠牲や努力の結果現在はより、
「効果的で安全」
な、指導方法練習方法も確立しているにも関わらず、一部で続く謎の「根性論」はスポーツの先人たちに対する冒涜のように感じます。
最後に。
ストックホルムオリンピックで同僚だったアルマンド・コルテサンは1977年11月29日86歳の天寿を全うします。ラザロ選手も元気でいれば、きっとオリンピックの想い出を二人で語っていたように思います。
以上、ラザロ選手の死因は?金栗四三と運命を分けたのは?でございます。
今宵は此処までに致します。