西郷の最初の妻須賀の父伊集院(直五郎)兼善と須賀の弟伊集院(直右衛門)兼寛は西郷達と共に明治維新で活躍します。ところで「伊集院家」という響きから須賀は「お嬢様」という説もありますが伊集院家は「名門」なのか!?確かに「やんごとなき」響きがありますが・・・?伊集院家と直五郎・兼寛(直右衛門)父子について。

伊集院兼善・兼寛父子

先に、須賀と吉之助の離婚の理由でも触れましたが、西郷家と伊集院家は二人の離縁後も決して悪い関係ではありません。

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そして、維新で大きな功、特に兼寛は戊辰戦争などでも大いに活躍をしています。

幕末明治の活躍

須賀と兼寛の父直五郎兼善は1817年(文化14年)に伊集院作平次の三男として生まれます。幕末期に関しては際立って目立つ活躍は記録にはなかったのですが、維新後は明治7年(1874年)に鳥取県権参事に任官するのを皮切りに、鳥取県参事、高知県参事、元老院大書記官等を経て最後は高知県令に任官し在職のまま病没しています。




県令とは今でいう県知事ですが、明治期~戦前までは「知事」は内務省の官僚が勤めていました。因みに、当時は現在の「47の素敵な街」ではありません。廃藩置県後には72県ほどありました。




参事」や「大書記官」「県令」といってもいまいちイメージし難いと思いますがかなり「上級」の役人です。この役職より上は「天皇直々に任命される」勅任官になります。軍隊で言えば大佐クラスつまり将官一歩手前、ちょっと乱暴な言い方だと「部長や事業部長」でこれより上は「役員」みたいなイメージです。



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そして、息子の伊集院兼寛。




伊集院兼寛は西郷や大久保とも関係が深かったと言われます。「翔ぶが如く」では吉之助と自身の姉である須賀(演:南果歩)をくっつけるために、正助や大山と二人を橋の上で会わせるために奮闘する微笑ましい場面が描かれています。



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大河ドラマ「西郷どん」では郷中の仲間といった扱いではありませんが、大山や有馬などと同じく「郷中の仲間」として共に切磋琢磨していたものと思われます。




その証左となるのが文久2年(1862年)の「寺田屋騒動」です。「精忠組」の中で特に過激な攘夷派の頭目と目された有馬新七らの暴発を「血刀を以て」防いだ寺田屋騒動ですが、この時西郷信吾(後の従道)等と連座して謹慎処分を受けています。




ただ、その翌文久3年「禁門の変」「薩英戦争」の頃には許されて戦闘に参加。戊辰戦争では東山道(中山道)方面での戦いで参謀として活躍します。




維新後は大蔵省に出仕し近代的な会計制度の整備に尽力。後明治6年(1873年)には海軍省へと活躍の場を移し(海軍少将)西南戦争では当然政府側として西郷軍の情勢を探る活動をしています。薩摩人としては忸怩たる想いがあったのではと察せられますね・・・。




因みに、この辺りの伊集院兼寛の官歴を見るだけでも「明治政府」が曲がりなりにもなんとか協力体制を維持できた理由が分かる気がします。




維新志士と言われた人々は「軍人」でありながらも「文官」でもあったんですね。個人的に感じるのは皮肉な話ではありますが「藩閥政治的」なものがある間の方が「軍」「政治」「官僚」の相互理解は出来ていたと思います。




ただ、藩閥政治が解消した頃には「軍」「政治」「官僚」は其々所属する蛸壺の事だけを考えるようになり、一生懸命支離滅裂になっていったように感じます。




話が逸れました。




伊集院兼寛自身は明治20年(1887年)になると、これまでの活躍を認められ「子爵」を授けれれる所謂「華族」となります。最後は明治31年(1898年)に勲一等を授与された後数日後に亡くなっています。

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伊集院家の出自

「伊集院」という響きに「名門」という印象がありませんか?何故か?勿論「院」という響きもあると思いますが・・・。(余談ですが、公卿公家で「院」がつく家は殆どないんですけどね)私は「はいからさんが通る」の影響大だと思います・・・!因みに、伊集院兼寛は「少尉」のお爺ちゃんがモデルですね。

伊集院家は一門衆で家老?

伊集院家は鎌倉時代に島津家から別れた一族です。これ自体はそれ程珍しい事でなく例えば伊集院氏以外でも新納氏(忠元)や山田氏(有信等)も元をたどると島津家から別れた一族です。




勿論、幕末期はおろか、既に戦国期には「一門衆」という雰囲気ではなかったと思いますが、島津貴久(義弘や義久の父)の時代には伊集院忠倉が出て筆頭家老にそして、その息子伊集院忠棟の時代には豊臣秀吉から特に「朱印を以て」領国を与えられています。




イメージとしては毛利家に仕えていた小早川隆景のミニマム番といった感じでしょうか。豊臣秀吉から見れば陪臣(豊臣家臣である毛利家のそのまた家臣)でありながらも直接領国を付与されています。忠棟は武略に優れていたのは勿論ですが、九州征伐での和睦交渉に功があった事が認められての事と言われます。

伊集院家の粛清

ただ、忠棟その後の運命は小早川隆景のように穏やかな最期は迎えられませんでした。島津忠恒(義弘の子で初代薩摩藩主)との間で争いがあり暗殺されています。その後、息子の忠真は国元の日向で反乱を起こしますが、家督を継承する事を条件に和睦。しかし、和睦の後に伊集院一族の主だった者はは皆粛清・離散してしまいます。




因みに、これらの事件は関ヶ原直前期なのですが、島津家がその国力に比してわずか千~二千程度の軍勢しか派遣出来なかったのはこの内乱の影響が大きかったとも言われます。




後にその子孫は島津家に帰参しますが筆頭家老を代々務めたかつての栄華を取り戻すまでには至りませんでした。




伊集院家が再びその栄華を取り戻すのは伊集院兼善・兼寛父子の活躍まで待たなけれななりません。




最後に「伊集院」という苗字ですが、実はそれ程珍しい苗字ではないのです。日本には30万近い苗字があると言われますが「伊集院」は4125位で役2,900人(鹿児島に860人)の方がいらっしゃるそうです。
苗字由来ネットより




以上、伊集院(直五郎)兼善と息子の(直右衛門)兼寛についてでございます。

今宵は此処までに致します。

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