西郷の家格は低い?身分家格も低く貧しかったとも言われがちの西郷や大久保。確かに貧しかったのは間違いなさそうですが、西郷や大久保の身分や家格は決して低くなかった?イマイチ分かりにくい薩摩藩の家格・身分制度を相棒(捜査一課9係とか)を参考に解説!

薩摩藩の身分・家格について

薩摩藩は戦国の気風を太平の世の間も残し続けました。それは、二つの点からも如実に現れていると思います。一つは「切腹」だと思います。太平の世とは思えない程兎に角苛烈な家風。



※関連記事:→忠臣蔵で有名な赤穂藩と薩摩藩!切腹が多いのは?


もう一つは「武士」の多さです。

武士の多い薩摩

薩摩藩は77万石の大藩です。ただ、西郷どんでも描かれていたように必ずしも稲作に適した土地ではなく実高は35万石程度と言われます。その実高で嘉永5年(1852年)当時「薩摩・大隅・日向」で62万程度の人口がありました。その際、郷士まで含めた士族は17万(27%)程度。




維新後の「四民(士農工商)平等」となった際も士族籍がやはり人口の25%程度ありました。因みに、全国平均は6~7%。




勿論、「武士は食わねど高楊枝」という訳にはいかず、藩士半農のような生活をしている人間も多かった。実際「封建領主」のような家は所謂一部の「上士層」のみで西郷はじめ多くの武士は同じような感じだったと思われます。しかし、「貧しい」からと言って「身分家格」が低い訳ではありません。




薩摩藩の身分制度は概ね下記のような感じです。



※薩摩藩の家格身分



これだけを見ると、「士分」の一番下(与力を含めると下から2番目)という感じではあるのですが、例えば、家老を務めた調所広郷の実父川崎主右衛門基明(川崎兼高)も養父となる調所清悦も西郷達と同じ階層です。「士分」であれば能力次第で出世も望めたという事なんですね。




実際、調所広郷も重豪(斉彬の曾祖父)存命中に江戸留学が認められ、そこで重豪に見出された事がきっかけで薩摩の行政官としての人生を歩み始めています。



※関連記事:→調所広郷の皮肉な運命蘭癖に活かされ、蘭癖に死す


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西郷や大久保の家格は警部級!?

さて、西郷や大久保の「身分家格」ですが実際どの程度なのでしょうか?確かに調所広郷は家老にまでなっていますが何事にも「例外」はあります。調所広郷借金まみれの薩摩藩を「救った」救国の英雄ですからね。そこで、イメージし易いように「現代」の馴染み深いアノ組織と比較をしてみました。

西郷は右京さん!小松帯刀は甲斐さん!?

明治維新に際して薩摩藩には約43,000家の「士族戸数」がありました。その中で西郷や大久保の「御小姓与」は約3000家。
※ご一門は島津四家、「一所持」21家、「一所持格」約20家、「寄合」約60家(並含む)「無格2家」「小番」約760家、「新番」約25家。




それをざっくりテレビドラマでも馴染み深い警察組織と比較!
※あくまでイメージし易いように割合のみに注目しての比較表なので!両さんの家格が低いと言ってる訳ではないです・・・!




あ、余談ですが「両さん(こち亀)」は巡査長だと思っていたんですけど、「巡査長」というのは法律で定められた正式な階級ではないのです。そのものズバリ「巡査長に関する規則」で規定された階級的職位なんですね。今回初めて知りました。


※薩摩藩の家格を警察組織と比較!クリックで拡大



西郷や大久保は「右京さん(相棒)」や「加納倫太郎(捜査一課9係)」に相当しますね。管理職クラスで現場指揮を統括する役目ですね。
余談ですが、もう係長や夜明さんを見れないと思うと寂しいです・・・。




赤山靱負や小松帯刀は「小野田官房長(相棒)」や「甲斐峰秋(相棒)」です。これはもう大幹部です。余談ですが中園参事官内村刑事部長はめちゃくちゃ偉い人なんです。




おそらく、「西郷どん」でも後半必ず出てくる日本警察の父と言われる「川路利良」は与力出身で「本城慎太郎(刑事貴族)」という事になります。与力は現場の「ユニットリーダー」的な役割でしょうか。




薩摩藩ではこの「与力」以下が「準士分」という扱いでここの「河」が深かったようです。
(お互いあまりよく思っておらず交流も少ない)




大久保や川路もはその辺りを熟知しており、後に、西郷の私塾を内偵させる時に私塾の幹部達の多くと同じ「城下士出身」ではなく、敢えて郷士等の出身者を中心に選んだと言います。




以上、西郷の家格・身分は警部?薩摩藩の身分制度についてです。

今宵は此処までに致します。

→調所広郷の改革。蘭癖により活き、蘭癖に死す

→お由羅騒動の原点は「近思録崩れ」にあり

→西郷どんのキャスト表(随時更新)