山中鹿助(山中鹿之助)。「山陰の麒麟児」の異名を持つこの武将は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈る辺りは中々ロマンチストでもあります。山中鹿介は尼子一門衆と言われてきましたが、実は海賊で尼子一門ではなかった!?ロマンチスト山中鹿助について。

尼子家臣山中鹿介とは?

山中鹿助(山中鹿之助)別名山中幸盛。戦国時代に詳しくない人でも、



「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」



と、三日月に願い、尼子家再興に生涯を捧げた人物というと見たこと、聞いた事がある方も多いかと。



※関連記事:→尼子勝久の悲劇は新宮党事件から始まる


1562年に尼子が滅亡。
主君尼子義久等一族はは死一等を免れていますが山中鹿介は主君に帯同する事はゆるされません。




その後、1568年京都で僧籍となっていた新宮党の流れをくむ尼子勝久を見出し尼子再興に生涯を捧げます。




尼子再興運動は大きく三回に分かれるのですが、最期3度目の再興運動(上月城の戦い)で毛利に敗北。勝久は自害、鹿介自身は毛利輝元の下へ護送される途中殺されたと言われています。




前回、「尼子勝久の記事」でも記載しましたが一番の悲劇は尼子勝久であった気がしますね。




その山中氏と鹿介の出自については不明な点も多いようですが、出自については尼子を最盛期に導いた尼子経久の祖父、尼子持久の次男「尼子幸久」を祖とする尼子一門衆と信じられてきました。




しかし、実際は山中頼定を祖とする甲賀佐々木山中氏の一族であったものと思われます。つまり、尼子の一門衆ではないという事ですね。




尼子一門とされている根拠の1つとして後世の創作物である「尼子分限帳」に尼子幸盛は中老という所謂重臣の地位にあった事も上げられています。一門だからこそ中老という高い地位にあったと。




しかし、竹生島奉加帳という1540年成立の資料によると「次第不同(順不同)」とは言え山中三郎兵衛なる人物が一番下に記載されています。1545年生まれの鹿介ではありませんが、恐らくは鹿介の先代にあたる人物であると思われます。




つまり、この竹生島奉加帳という資料によれば山中家は尼子家中で必ずしも高い地位ではなかったことを示していると思われます。もし、本当に「尼子一門」であるのであれば流石に「次第不同」とは言え一番し下に記載はしないと思いませんか?




さらに、この竹生島奉加帳には「清久」なる人物が上位に記載されています。清久は経久と対立して殺された塩冶興久(1497-1534)の子供です。この時反乱は鎮圧されて終わっていますが元謀反人の一族です。




同じ「尼子一門衆」一門衆であるのであれば、謀反人を出してしまった塩冶興久の子である清久より低い順位で記載をするでしょうか?



と、いうことで尼子一門ではなかったのではないかと思います。

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山中鹿助は海賊であった!?

山中鹿介は



「父を早くに亡くし貧乏だった」



と言われています。
しかし、地位は低くても「貧乏ではなかった」ようなんですね。




というのは、山中氏館跡があったとされる地域で大陸貿易を行っていたと思われる資料が出てきています。実は大陸貿易で山中一族は豊かな財力を持っていたのではないかと思います。




一時期出雲の大部分を制圧した尼子勝久が(所謂第一次尼子再興運動)、結局毛利に追われて出雲を出国した後、一時海賊として行動していたという伝承があります。これも山中氏と海との関わりを示しているような気がしますね。




以上、「山中鹿助と尼子勝久の夢」について。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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