鈴木重時。良い奴程長生きはできないのかもしれません。そして、第35話では息子の鈴木重好が登場。この子は何処かで見たことが・・・。そうだ長政!黒田長政のCMだ・・・
おんな城主直虎での井伊谷三人衆はまあ、登場シーンから「感じ悪!」という感じでしたが、唯一?途中からやや感じが良くなったのが鈴木重時。鈴木重時そして息子重好と子役の下川恭平君、また井伊谷三人衆のその後について。

鈴木重好役の子役は

さて、印象的な登場をする事になる鈴木重時の息子鈴木重好。演じているのは下川恭平君ですね。




ワタナベエンターテインメント所属で現在中学1年生。しっかりTwitterでも告知をしてくれています・・・!



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長政(松坂桃李)とCMで共演

私、何処かで見たことあるな・・・
と思っていたのですがハウス食品のTVCMですね。



→松坂桃李 CM ハウス 北海道シチュー 「松坂桃李登場」篇へ


一応補足ですが、長政というのは「黒田長政」の事ですので・・・!軍師官兵衛では官兵衛の嫡男黒田長政を松坂桃李さんが演じておりました・・・

※関連記事:→重好の父重時も討死した堀川城の戦いと悲劇。

井伊谷三人衆来歴

おんな城主直虎では井伊谷三人衆のイメージは近藤康用を筆頭にあまり良くはありません・・・。まあ、気持ちは分かります!日本中の政次クラスタからは「もみあげ燃したる!」といった声が聞こえます。もみあげ近藤さんにも言い分はあると思いますが・・・。

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鈴木重時

鈴木重時は享禄元年(1528年)の産まれと言われます。世代で言いますと・・・。小豆狸の徳川家康の「母」於大の方と同じ世代になります。他有名どころですと明智光秀とも同世代です。




さて、鈴木重時と言えば近藤康用が策略を巡らし家康に讒言を吹き込んでいる時も、直虎は助けてやって欲しいと言ったり、第34話「隠し港の龍雲丸」では南渓和尚に政次の件を謝罪したりと、多分に直虎や井伊谷の人々に同情的です。




その理由は奥さんにあります。




覚えておりますでしょうか?




直虎がなんとか寿桂尼様から井伊を任せてもらう事を認めてもらった後、井伊谷を潤すために第16話「綿毛の案」で人を借りに行ったときのことを。



「鈴木重時とは親しいのであろ?」



直虎にそう言われて奥山六左衛門も同席をしていました。実は鈴木重時の奥方は六左衛門の姉なんですね。奥山家から見れば、なつが嫁いだ小野家、直親が嫁いだ井伊家、そして鈴木家もまた娘が嫁いでおり、姻戚関係にあります。




鈴木重時から見れば六左衛門は妻の弟、義弟になります。




また、虎松や亥之助は甥っ子ですね。




井伊家には縁が深い事もあり思うところもあったのかもしれませんね。




そんな想いもあって寝返ったことが影響したのでしょうか?今川は決して弱小国ではありません。実際駿府城を武田信玄に焼かれてから後も掛川城で奮戦する朝比奈泰朝、そして、我らが大沢基胤。




結局この猛将大沢基胤との戦で鈴木重時は落命してしまいます。




この寝返りの成果はその息子である重好時代に花咲く事になります。

息子鈴木重好

井伊谷三人衆の近藤・菅沼と同じく井伊直政がその所領を回復すると家康により直政に付けられます。家康の名を天下に知らしめた「小牧長久手」でも奮戦します。




その後も直政に仕え家老にまで出生するものの直政が1602年に死去すると幼い直継を支えますが、同僚との権力争いに破れ井伊家からは事実上追放となります。




その際、藩の公金の不正流用や依怙贔屓による家臣の取り立てなどが告発され、その話は家康まで達しておりました。




ただ、家康は重好を「隠居」させると所領上野へと戻す形で穏便に「追放」し、息子重辰はそのまま彦根藩井伊家に残し権力争いも和解させます。




家康は幕府を開いていたとはいえ、まだ豊臣家は厳然と存在している頃ですからね。後の仕置きと比べると随分と「優しい」仕置きだなと感じますね。




重好自身はその後秀忠の命で御三家水戸藩へと出仕となりそこの家老として生涯を終えています。父、重時の決断があったればこその上々の生涯ではないでしょうか。

菅沼忠久

次は菅沼忠久。この菅沼忠久が直接的には井伊谷三人衆を徳川方へ寝返らせたキーマンですね。菅沼氏というのは元々を辿ると土岐氏(美濃守護)に連なると言われています。




菅沼氏は東三河中心に島田菅沼氏、有力支族として野田菅沼氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏等があります。菅沼忠久は「都田菅沼氏」の三代目で、菅沼一族のホームグラウンドである三河ではなく、遠江引佐郡都田に唯一地盤を持っていました。




おんな城主直虎を見ていると今川治世下の井伊は兎に角弱小で今川に虐げられているような感じですが、実際はそれなりの国衆でもあり、菅沼忠久は井伊家に従属するような立場だったと思われます。




桶狭間以降、弱体化したとは言えどもとても徳川単独で今川と争う事は出来ないわけで、そうなると今川の影響力が強い遠江に地盤を持っていれば徳川方となるよりは、今川方でいた方が「生き残れる」という意識はあったと思います。




まあ、ものすごく穿った見方をすれば、菅沼一族も徳川と今川に分かれて何方かが生き残る・・・・と考えた可能性も・・・
ないかな・・・。




さて、この菅沼忠久ですが奥方は前述の鈴木重時の長女なんですね。桶狭間以降の今川・徳川のある種の均衡を崩した大国甲斐武田信玄の駿河侵攻と呼応する形で、徳川方も本格的に遠江侵攻を検討します。




その際に当初から徳川方であった菅沼一族の野田菅沼氏菅沼定盈が、菅沼忠久に徳川方への離反をすすめ、その菅沼忠久が妻の実家である鈴木重時、そして同僚の近藤康用を抱き込み、井伊谷三人衆は揃って徳川方へと寝返ります。




本来はおそらく、菅沼忠久が自らの安泰のために有力国衆の井伊家とも縁深い鈴木重時から妻を娶ったという側面が強いと思いますが、「縁」もどう転ぶか分かりませんね。ある意味では娘を嫁がせておいたおかげで早く情報が回ってきたとも言えますね。




後に、菅沼忠久は長じて井伊家家督を継承した直政配下となります。ただ、運命の天正10年(1582年)、そう徳川家康運命の伊賀越え(つまり本能寺の変)の年に没しています。直政の元では華々しい戦は出来なかったようです。




これもまた、息子忠道の時代には花咲く事になります。

近藤康用

おそらく井伊谷三人衆で最も年輩と思われます。永正16年(1517年)生まれ。時の天皇である正親町天皇と同じ年です。




桶狭間以降も遠江有力国衆でもあった井伊家と共に今川氏真に従っています。その辺りは鈴木、菅沼と同じですね。そう、徳川は遠江では決して有力ではなかった。




さて、すっかり悪役&濃いめのもみあげが印象的な近藤康用ですが、おんな直虎放送前の一般的な見方としては、小野政次が井伊谷城を占拠する等専横極めたため、菅沼・鈴木と共に徳川へと降ったと考えられています。




まあ、見方を変えれば、結果的に井伊谷三人衆(その息子達)は井伊直政に仕えているので、小野の所為で苦しんた井伊の忘れ形見が長じて小野の専横に反発した井伊谷三人衆の子孫を従えるという、美しいストーリーもあり得たわけです。




ただ、ちょっと面白いのはですね。




この鈴木重時と菅沼忠久はかなり早い時期に亡くなってしまいますが近藤康用は三人衆の中で最も長生きです。




直政は若い頃(1580年代とか)はかなり峻烈な御性格で、近藤康用は直政にびくびくしながら晩年を迎えたと言われます。前にも記載しましたが、桜の旦那である庵原朝昌も直政とぶつかり出奔しています。まあ、まさた、政次の件を根に持って・・・というわけではないでしょうけど・・・。




おんな城主直虎ではそこまでは描かれない(直虎は1582年に亡くなるので・・・)と思いますが。




以上、鈴木重時の息子重好役の子役下川恭平君についてと三人衆のその後の記事でした。

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→おんな城主直虎感想35話「蘇えりし者たち」

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