中山尚之助について。小松帯刀、大久保利通(一蔵)、伊地知貞馨(堀次郎)と共に「久光四天王」として表舞台に登場。抜擢された当初は上士階層であった事もあり、四天王筆頭ともいってよい立ち位置におりました。大久保も当初は中山尚之助と協力し西郷の帰参を願うなど良好な関係でしたが・・・!西郷の運命を左右した中山尚之助について。

中山尚之助、久光四天王筆頭へ

島津久光は安政5年(1858年)7月16日に斉彬が死去するとその遺言に従い実子の茂久が藩主となります。久光は「後見」を頼むと遺言されており「国父」としての礼を受ける事になりますが、藩政を掌握するのは斉彬・久光二人の実父斉興が亡くなった後。その手始めに始めたのが「四天王の登用」です。




その筆頭格と言われたのが中山尚之助(天保4年(1833年)生)。
(大久保より3歳、そして西郷より6歳若い)

青年将校

久光は歴史的には実子でる茂久が家督を継承し「国父」として薩摩の藩政を事実上掌握します。今から振り返れば「さもありなん」という感じでしょうが、恐らく当の久光はそれ程「悠長」ではなかったと思います。




久光は決して愚かな藩主でも、また「君臨すれども・・・」といった形の毛利父子とも異なります。自ら指導力を発揮する事を厭わない藩主です。



「藩主でもなく、前藩主でもなく無位無官」



この事は久光自身もある程度は分かっていたと思います。また、兄斉彬とは良好な関係ではあったものの重臣達は必ずしも「自分を評価していない」事を痛感する出来事も起こります。斉彬時代に功績のあった島津下総(かの赤山靱負の兄)の解任です。




下総は斉彬の死後、そして斉興存命時代に一時閑職に追いやられていたのを久光が再度抜擢した人物です。久光は兄斉彬の意思を継ごうとしますが、この下総はそれに反対をしたと言われます。大河ドラマ「翔ぶが如く」でも島津下総が解任される場面が描かれていましたね。



時に文久元年。
薩摩藩では島津久光がいよいよ斉彬の意志を継ぎいよいよ出府をしようと考えていた。


「下総!いよいよ儂は幕府に改革を促すため出府しようと考えておる!」


下総とは家老の島津下総である。下総は久光の出府の意気込みに冷水を浴びせる。


「怖れながら・・・国父様は先代とは違います」


島津下総は斉彬は江戸生れの江戸育ちであり、諸侯との人脈もあったが久光にはそれがないと諌める。この状況で出府して失敗しては家老として責任果たせないと。


「そうか、なら家老の職を解く!」

「この久光!家老に責任など取らせようとは思わぬ!」


久光はこれを機に小松帯刀など中堅藩士を藩政の中枢に抜擢する。



久光は自らが頼みとする重臣が藩内に決して多くはない事を痛感したと思います。



「自分の為に働く子飼の家臣の登用」



久光は四人の若手藩士(といっても30前後ですが)を登用。後の大久保利通が表舞台に出るきっかけとなった人事ですがこの時この4人の中で最も久光の信頼を得ていたのはこの中山尚之助と言われます。
(身分は一所持格の小松帯刀が最も高い)



※関連記事:→西郷大久保の身分は高い?薩摩の身分制度


この人事一つ取って見ても久光の優れたバランス感覚が見て取れます。薩摩藩有数の名門出身の小松帯刀、そして上士層出身と伝わる中山尚之助、そして下級藩士中心の「精忠組」から大久保と堀。




この4人は当然「自分の飼い主」が久光である事を十分に理解していました。また、中山尚之助はもちろん、大久保含や堀、小松も久光の事を「忠義を尽くすに足る人物」だと確信していたと思います。




後に、この四人の運命は互いに絡み合いながらあまり良い形にはなりませんでしたが・・・。




この時は「四人一丸となって」久光を支えようとしていました。

もうひとつの不幸な出会い

「三郎(久光)はジゴロ(田舎者)でございますれば・・・」



西郷を描く物語には必ず登場する久光と西郷の不幸な出会い。しかし、この「不幸な出会い」はもう一つの「不幸な出会い」が発端となっています。個人的にはこれは「大久保が迂闊であった」のではないかと思います。




久光の願いは兄斉彬が為しえなかった「幕政改革」を朝廷の権威を背景に実行する事です。当然、中山尚之助も大久保もそれを「共通目標」としていたに違いありません。ただ、一方で島津下総が久光に指摘した事は必ずしも的外れではない事も理解していました。一度、卒兵上京の段取りを組んだ西郷吉之助の力が必要。




大久保は「西郷帰国」を久光へ願い出ますが久光は西郷にはそれ程興味がなかったようですぐに許しは得られませんでした。




この時の西郷は罪人として大島へ送られているわけではありませんが、幕府へは「西郷は死んだ」と報告している手前わざわざ島から呼び戻す必要はないと考えていたようです。
ここで、大久保は中山尚之助と共闘します。




大久保は久光の信頼厚い中山尚之助の助力も得てついに、西郷の帰参を実現します。西郷が成就院月照と入水し、奇跡的に生還して島へ身を隠してから3年の月日が流れていました。



※関連記事:→月照と西郷の関係とは?近衛家と薩摩の信頼を得た背景


ここで、西郷は中山尚之助はじめ、久光重臣から「卒兵上京計画」のあらましを聞いて手厳しい「反対意見」を述べています。



  • 勅諚を得るといってもツテはあるのか?
  • 兵を上京させるはいいが何処に滞在させる?
  • そもそも何時まで滞在させる?その兵糧は如何程?


西郷の指摘は一々ごもっとも。しかし、協力する気もサラサラないといった西郷の態度に中山尚之助はどのような想いだったか?西郷の指摘は一々もっともではあるが、だからこそ「助力」を仰ぎたいと呼び戻したのではないか?




西郷と大久保の二人には「固い絆」があります。しかし、中山尚之助や久光は、斉彬の寵臣とは言えここまでずけずけ言われた挙句協力する気はないとなれば、



「いったい何様?誰のお陰で島から戻れたと思っている?」



という気持ちが出ても致し方ありません。実際、「ジゴロ」発言は久光が退出した後(あるいは事前の打ち合わせ時)、西郷が中山尚之助や大久保に語った事を中山尚之助が注進したとも言われます。




これは中山尚之助の立場からすれば決しておかしな事ではありません。西郷ももし斉彬を「蘭癖の浪費家」と言われれば黙っていなかったでしょう。




卒兵上京の計画が杜撰であった事は間違いありませんが、では何故西郷は此処まで「頑な」だったのでしょうか?これは前述の「島津下総解任」が影響しているのではと考えれれます。




島津下総はかの赤山靱負の弟で斉彬時代には家老の地位にあり、その縁から西郷の後援者でもありました。その下総が久光に解任されている。そうした「感情的」な部分もあったのではと思います。




そして、大久保はおそらく西郷の「不信感」に気付いていました。結果的に大久保は西郷の協力を取り付けますが、大久保が久光や中山尚之助との会談前に根回しを行っていればあるいはと感じます。




こうして、新旧「寵臣」は最悪の出会いとなってしまいます。

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寺田屋と薩英戦争

中山尚之助は深く西郷を恨んだと思います。後に西郷は久光卒兵上京に先立ち「先行して諸国の様子を見分し下関で待て」と命じられるものの、京・大坂の様子が既に風雲急を告げる事を知り、京へ出発。後に久光の怒りを買います。




ここでも中山尚之助は「手紙一つ残さずに命令を無視するとは」と西郷を非難していますが、この頃までが「久光四天王筆頭」の中山尚之助最盛期。西郷の暗転と共に、中山尚之助の栄華にも陰りが出ます。

寺田屋騒動の余波

誌幅の関係から詳細には記載しませんが、「寺田屋騒動」で有馬新七を事実上の頭目とした、「精忠組分派」は大山格之助を中心とする鎮撫使により上意討ちとなります。



※関連記事:→翔ぶが如く17話「同士討ち 寺田屋事件」


この一件で久光は朝廷からの信頼を得る事が出来ますが、一方で、本来の「勅諚を得て江戸へ出府し幕府に改革を迫る」という目標は一時的に遠のきます。



「薩摩がいなくなったら誰が京の治安を守るでおじゃるか?」



朝廷は薩摩に出来ればこのままずっと滞在して欲しいと願います。中山尚之助は久光の意向である「勅諚を得ての江戸出府」の実現に奔走するも中々要領を得ませんでした。




中山尚之助が右往左往している間に大久保が岩倉具視と折衝、大原重徳勅使として江戸へ向かう「護衛」として久光の江戸出府を実現します。




西郷との関係から「久光から遠ざけられていた」大久保の金星ですね。
さらに。



「上洛軍が先の寺田屋事件の同士討ちで動揺」



しているため、西郷捕縛で恨みを買っている中山尚之助は薩摩へ戻る事を命じられます。




勿論、「寺田屋事件」を命じたのは当の久光ですが、その「手先」として恨みを買っていた中山尚之助が江戸出府の際に不協和音になりかねないという趣旨です。



「久光の代わりに憎しみを受けた」



とも言えるかもしれません。この頃から中山尚之助の栄光に陰りが出てきます。

薩英戦争の責任

西郷や大久保、明治維新を描いたドラマでは薩英戦争は「薩摩の勝利」といった趣きで描かれる事が多いですね。確かに、英国艦隊の拙攻もあり「人的被害」はなんと英国艦隊の方が多いといった事もあり、



「薩摩勝利」



とする事に理由がない訳ではありません。



※関連記事:→翔ぶが如く20話「薩英戦争前夜」


しかし、この戦いで斉彬時代を通して鋳造された大砲は前門大破、さらに、集成館も焼け落ち、蒸気船も炎上、鹿児島城下の約1割を焼失しています。



「誰の所為でこんな事に?」



勿論、生麦事件の影響であり、そしてその責任は久光はじめ藩の重臣達にあります。因みに、この「生麦事件」には中山尚之助は関与していません。というか、薩摩へ返されていますから。




しかし、これだけ被害が出れば「不満」も出ます。




その責任を取り側役を免じられます。島送りなどの「処分」をされた訳ではありませんが、この時薩摩藩内での、そして、後の明治維新での「中心的な役割」を演じる可能性は潰えたと言えるでしょう。




ここでもまた「久光の身代り」となったと言えると思います。

明治へ、それでも尚忠義を

さて、中山尚之助の最期について。中山尚之助は「出世コース」を外れた後も薩摩藩内で奉行などを務めています。おそらく、その後も薩摩、というよりは久光の傘下で役人をしていたものと思われます。




久光は明治維新後は「守旧的」な活動が目立ち、特に幕末維新を前後して自らが見出した大久保を非難しています。大久保をはじめとする明治政府首脳は常にこの久光に頭を悩ませる事になります。




久光は左大臣となり東京へ出てきますが、その時に中山尚之助も帯同していたようです。しかし、久光の「懐古主義的」な意見は受け入れられず、久光は明治8年10月左大臣を辞職し薩摩へと戻ります。この直後、明治9年(1876年)に大久保・木戸の暗殺を企てたとして警視庁に逮捕され獄中で亡くなっています。
(紀尾井坂の件とは別)




大久保の暗殺。




久光が「明確に」そのような命令を出したとは思いません。




しかし。




中山尚之助は久光の思いを忖度し、そして最後の最後に梯子を外されたのではないか?




その運命にはなんとなく「勤め人の悲哀」が感じられるようでなりません。




以上、中山尚之助、久光への忠義。西郷との関係でございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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