「長篠に立てる柵」でいよいよ勝頼率いる我が武田家に最大の悲劇が・・・。日本史上でも有数の有名な戦でございます。無敵を誇る武田騎馬軍団が無謀にも馬防柵に突込み織田信長の鉄砲に破れる。・・・後世皆言います。何故?なぜ?ナゼ??、武田勢は無謀とも言える突撃をしたのか?今の常識で見ては分からぬ事あると思います。

長篠の戦前の状況

まずは簡単に「長篠の戦」前の状況をおさらいしたいと思います。元亀3年(1572年)西上作戦を開始した信玄は12月三方ヶ原で徳川勢を散々に破ります。そして、年が明けてからはついに東三河野田城を落し東三河へ侵攻。しかし、同年4月晴信は陣中で没し、2万7千の武田軍は甲斐へと引き上げます。

※関連記事:→後編「長篠の戦い(設楽原の戦い)の何故?勝頼が勝利を欲した悲劇的理由」

織田徳川の反撃?

信玄が亡くなり武田勢が引き上げた後に守勢に回っていた織田・徳川が反撃に出た・・・。というのがよく言われていますが、「反撃」と言えるほど大袈裟な物ではなかったと思います。そもそも、信玄が亡くなったからと言って武田軍が消えてしまった訳ではないですからね。




確かに、信玄が亡くなった後、西上作戦最後に落とした野田城は徳川方が奪還、奥三河の有力国衆である山家三方衆の一角、奥平貞能父子を徳川方に引入れ、さらに、長篠城を再び取り戻してはいます。




しかし、これらは全て「三河」の話であり、西上作戦を停止して引き上げた後の野田城を獲ったといっても「反撃」と言える程の物ではないと思います。少なくとも「武田の脅威は厳然と存在」し、攻守に関してもあくまで、「織田・徳川は守勢」であったと思います。




ただ、武田勢への「反撃」は空城を取り返した程度であったかもしれませんが、この年(改元があり天正元年)に朝倉義景と浅井長政が滅んでいるんですね。信玄の西上作戦時であっても単独での動員数は信長が一歩も二歩も上だったかもしれませんが、西(浅井朝倉)と東(武田)に囲まれていて二正面作戦を常に意識する必要があった信長が、信玄の死をきっかけサッサと「西」を片付けてしまった事は今後の作戦行動が飛躍的立てやすくなったのは間違いないでしょう。

むしろ勝頼の攻勢

我らが勝頼は引き上げた後家督を継承します。年が改まった天正2(1574年)年2月木曽方面から東濃へ侵攻を開始。勝頼は1万5千で岩村城へと進出し明知城を落します。




信長はこの時6万(3万?)に達すると言われる軍勢で急行します。もしかすると、ここで武田・織田の激突があれば・・・歴史は変わったかも?しかし、信長は明知城落城の報を受けると撤退します。




信長が信玄を警戒していたのはフロイスの記述等からも間違いないところです。信長だけではなく、戦国大名は勿論、庶民にまで信玄率いる武田軍団の強さは知れ渡っています。勿論、「信玄個人の力」も警戒したのでしょうが、その信玄が作り上げて来た「軍」は健在なのです。信長は数に任せた力攻めは避けています。




勝頼はさらに攻勢をかけます。
次は遠江です。




天正2年(1574年)5月遠江の徳川領にも進出。勝頼は2万5千と西上作戦の動員時と近い規模で侵攻。堅城として知られ、徳川にとっても重要拠点である高天神城を包囲。




徳川は信玄の西上作戦時から大して変化なく動員出来る兵力は8千程度。数で劣り、さらには敵は信玄は亡くなっているとはいえ百戦錬磨の武田軍。三方ヶ原がよぎったかもしれません。徳川勢単独では勝負にならない。




たまらず、信長に援軍を要請。既に前年に浅井・朝倉、さらには足利義昭も放逐していた信長は自ら大軍を率いてやって来てますが・・・。高天神城は信長到着前に落城し、信長は引き上げます。




結果的に高天神城防衛に間に合わなかったのですが、高天神城落城の報告に浜松からやってきた家康に「これで兵達に旨い物でも食べさせてくれ」という意味でしょうか?兵糧代だと言って馬二頭で運べる量の黄金を贈ったと言われます。




因みに馬一頭が運べる単位を「駄」といいますが1駄は約135キロです。単純計算ですが270キロの黄金(小判?)です。




この「黄金袋詰め2セット」に関しては、高天神城救援に間に合わなかった事への詫びの意があるとか、勝頼との決戦に挑めなかった無念に思い次こそはという意味も込めてと言われます。




ただ、にしてもこれは常識外れに多い量なんですよね。個人的には「やましさの裏返し」という部分もあったのではないかと思います。




西上作戦ではロクな援軍を送る事ができず大敗、そして、今回も援軍に間に合わない。個人的には信長は未だに「武田軍を畏れていた」と思います。だからこその「慎重行動」だったのではないでしょうか。




此処までが「長篠の戦」前の状況です。
お伝えしたかったのは、



攻勢をかける武田と守る織田・徳川



この構図は信玄時代とまだ変わってはいないという事です。

嗚呼!長篠の戦い!馬防柵と鉄砲三段撃ち

信玄が亡くなった後、徳川は東三河方面でささやかな抵抗をしめしたものの基本は常に守勢であり、むしろ常時存亡の危機状態です。そしてやってくる、次の危機。攻められる度に助けを求める家康の気持を思うと少々同情します。さて、次は長篠城について。

※GoogleMapを元に加工

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長篠城

天正3年(1575年)4月勝頼は1万5千を率いて三河へ侵攻します。早々に包囲された長篠城守備隊はわずか500程度。




そして、何度も申し上げている通り「徳川単体」で武田勢とは戦えません。信長に援軍を要請し、今度は長篠城落城前5月18日に長篠の西方の設楽原に着陣。
その数、織田勢3万、そして徳川勢8千。




武田勢は数で有利な織田・徳川連合軍に対して撤退か決戦かを迫られます。ここで、信玄以来(内藤昌豊に至っては信虎時代から!)の山県政景、内藤昌豊、馬場信春らの撤退論を退け、跡部勝資ら新しい家臣らの意見を容れて、長篠城の抑えに兵3000を残し設楽原に着陣。




その頃、長篠城方面で織田・徳川連合軍に新たな動きがあります。武田勢は長篠城を包囲に当たり城が見渡せる鳶ヶ巣山に砦を構えていたのですが、そこが酒井忠次以下の軍勢に急襲されて壊滅してしまいます。



※GoogleMapを元に加工。陣立ては大雑把



ことここに至り退く事が出来ない武田勢は馬防柵と鉄砲で固められた織田徳川連合軍に血戦を挑むしかなくなります。武田勢は5月21日早朝、織田徳川連合軍と設楽原で激突。形勢不利を感じた武田信廉(信繁だったら持ちこたえた!)武田信豊(親父信繁に謝れ!)、穴山信君(裏切り者!!)が勝手に撤退!を始めると総崩れとなり、武田四名臣の内の3人、内藤昌豊、山県政景、馬場信春をはじめ、代々陣馬奉行として武田勢の軍略を支えた原昌胤、真田幸隆の子息信綱、昌輝兄弟等を失います。




以上を前提に巷間言われる、



・勝頼は何故倍以上の兵力差のある織田・徳川に血戦を挑んだのか?


と、いった部分に疑問を紐解いていこうと思います。
(軽く、鉄砲三段撃ちについても。)

勝頼が決戦を挑んだ理由

後から見ればなんとでも言えます。その時代や個人の持つ空気を知らずに批判する事は簡単です。私はまず、そもそも「無謀ではなかった」のではという事を声を大にして言いたいと思います。

無謀ではなかった

まず、もう前提も前提の大前提。



1万5千対3万8千の戦いが
「無謀」なのか?


という所から考えてみたいと思います。
桶狭間の戦いは寡兵の織田軍が大軍今川を破った戦いとして有名ですが、他にもけっこうあるのです。

戦場/年 勝利 敗北
飯田河原の戦い
永正18年(1521年)
武田信虎
4,000
福島正成(今川家臣)
15,000
厳島の戦い
天文24年(1555年)
毛利元就
5,000
陶晴賢
25,000
川越夜戦
天文15年(1546年)
北条氏康
8,000
上杉憲政
80,000
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)
織田信長
4,000
今川義元
25,000

因みに、飯田河原の戦いの時に大井夫人は晴信を詰城の要害山城で出産しています。




また、ここまで兵数差がなくとも、

戦場/年 勝利 敗北
手取川の戦い
天正5年(1577年)
上杉謙信
20,000
柴田勝家
40,000
人取り橋の戦い
天正13年(1586年)
伊達政宗
7,000
佐竹義重
30,000

※人取り橋は勝敗は決しなかったとも言われる。

兵数は勿論、重要な要素ではあるのですが、



「寡兵よく大軍を破る」
(あるいは寡兵大軍相手に粘る)


という事は往々にしてある事なのです。




因みに、武田信玄の駿河侵攻後、第二次薩埵峠(さったとうげ)の戦いともいうべき戦がありますが、その時、武田勢は1万8千に対して北条勢は4万を超える大軍でしたが両軍は睨み合いと小競り合いで両軍の激突はありません。



※関連記事:→薩埵峠(さったとうげ)の戦い


さて、武田信玄は「無謀」だったのでしょうか?
もし、武田信玄が無謀ならその武田信玄との激突を避けた北条氏政(当時氏康は存命中ですが指揮は氏政)は臆病者という事になります。

あと一つの要素

前述の通り勝頼は織田に対しても東濃方面への侵攻など積極的に仕掛けています。ただ、その時でさえ兵力差でいえば織田の方に分があります。それでも、信長けっして力攻めはしていません。




これは戦国時代の常識として「兵数で勝っていれば必ず勝てる」というセオリーは現在の我々が考える程鉄板な「常識」ではないという事だと思います。勝頼が寡兵でありながら数で勝る織田勢に挑んだ事をただ「無謀」とは言えないと思うのです。




勝頼には「勝算」があり一方で信長には「危機意識」があった。




ただ、「兵数」が勝敗を左右する大事な要素である事を否定はしません。多数の兵を擁する軍勢が少数の敵を破った戦いの方が圧倒的に多いと思います。そして、上記に挙げた戦に関しても「詭弁」という誹りを免れない点も自覚しています。



  • 桶狭間は奇襲
  • 厳島は奇襲&調略
  • 川越夜戦は籠城戦で奇襲
  • 手取川は織田勢の混乱に付け込んでいる
  • 人取橋は佐竹軍が調略に翻弄
  • 薩埵峠は地形が守るに易く攻めるに難い
  • 飯田河原も地の利は守る武田方


そう。
兵数に劣る「寡兵よく大軍を破る」場合には何かあと一つきっかけがある場合が多い。勝頼は織田・徳川連合軍に「あと一つ」の要素を見出いだしていたのだと思います。




どのパターンか?




厳島の戦いでは桂元澄が陶晴賢に偽装内通をして厳島に呼び寄せています、桂元澄は父桂広澄が謀反に連座し自刃したという事もあり陶晴賢に信用されています。




では、長篠の戦いでは?




それは佐久間信盛。




おんな城主直虎では信玄西上作戦時に武田に寝返るか逃げるかと検討中颯爽と現れていますがロクに戦わずに敗走しています。また、その後、朝倉攻め等でも信長には叱責(信長公記)されいます。信長に叱責をされた事は流石に勝頼は知らないとは思いますが三方ヶ原で「逃げた」事は知っているでしょう。なんせ、戦った相手なのですから。



「三方ヶ原で武田の強さを思い知っている」

「三方ヶ原での戦いを信長に叱責され恨んでいる」

「だから、勝頼様に従います!」



これは、中々説得力があります。
武田勢が得意とする野戦でしかも内応があるのであれば・・・。もし、ここで織田信長が討取る事が出来れば次は信玄がなしえなかった夢「天下」が見えて来ます。




しかし、結果的に佐久間信盛は勿論、織田方に内応は出ませんでした。

それでも結果は・・・引き分け!?

負けてない!
と言いたいところですが流石にそこまでは言いません。ですが、双方の損害や戦闘時間を鑑みれば大善戦、いやあと一歩及ばなかった・・・。
と言えるのではないでしょうか?
(当ブログは武田推しですからね!)




しかし、まず先に長篠の戦に関しての風評(最近はよく否定されるようになっていますけど・・・)



「馬防柵で騎馬隊の侵入を防ぎ鉄砲隊の三段撃ちで散々に破った」



について簡単に触れておきます。
長篠の戦は早朝から始まり8時間近い長期戦となるのですが、そんなに長い間鉄砲を撃ち続ける事など出来ません。そもそも現在であっても銃器に関しては長時間の連続使用を行えば砲身の摩耗や変形があります。如何に優秀な職人がいたとはいえ戦国期の鉄砲の連続使用には限界がある事は間違いないでしょう。





騎馬軍団が鉄砲に負けたというのは後世の「創作」かあるいは信長の「プロパガンダ」だと思います。



  • 当時「精強」を謳われた武田騎馬軍団を織田が破った!
  • 勝因は鉄砲隊!
  • 織田は鉄砲を大量に持っている!


諸大名に対して絶好の威嚇になりますからね。今回の勝利を最大限活かす信長らしい合理的な考え方だと思います。




ただ、武田勢としては鉄砲はともかく、即席とは言え馬防柵を備え陣地(縦深防御的)に寡兵で挑んだのは苦しかったと思います。一方で信長からみれば戦国最強の武田勢を自陣に有利な状況下で戦う事が出来ました。




これは、信長の「慎重さ」の勝利です。
信長がここまで準備をしていること、そしてその準備が実に巧妙であった事は会戦前は把握していなかったと思います。これは悔しいですが認めます。




しかし、それでも武田勢は「戦国最強」の名に恥じない善戦をしたと思います。
※私の長篠の戦はアルスラーン戦記「アトロパテネ会戦」のイメージ・・・!




確かに、山県、馬場、内藤等の「至宝」ともいえる正に一騎当千の諸将を失ったのは本当に無念ではありますが武田勢の強さは前線の武将の強さと勇敢さ。
これはある種のトレードオフの関係だと思います。




分かり易くいえば「国民皆兵・国民軍」「職業軍人・傭兵部隊」の強さの「質」の違いですね。どちらが強くて、どちらが弱いとは言えないと思います。武田勢は上杉勢(全てではないにせよ)等は国民皆兵に近い軍隊であり、一方で織田勢などは職業軍人・傭兵(足軽・浪人)部隊的な要素が強かったのだと思います。




双方の損害については諸説ありますが、8時間の戦闘が続いた事や武田歴戦の勇士達の戦死場所が、織田徳川連合軍の縦深地陣の深い所でもある事もありかなりの犠牲を出していると思われます。一説には武田1万、織田徳川6千等と言われます。




この犠牲には我が武田の戦線が崩壊して以降の追撃戦での犠牲もあるので、早朝から始まった戦闘の前半では概ね同じ位の損害だったのではないかと思います。




悔やまれるのは一門衆の勝手な撤退・・・。




私が声を大にして申し上げたいこと。




それは、この戦を通して織田徳川の諸将は改めて武田勢の精強さに「胆を冷やした」と思います。
そして、この辛くも得た勝利によって「武田騎馬軍団の恐怖」から解放された事を心底喜んだと思います。

以上、長篠の戦!馬防柵と鉄砲隊に武田勝頼突撃の理由でございます。




今宵は此処までに致します。

※関連記事:→後編「長篠の戦い(設楽原の戦い)の何故?勝頼が勝利を欲した悲劇的理由」

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