中川宮朝彦親王。通称「中川宮」として良く知られており所謂「八月十八日の政変」の中心人物でもあります。孝明天皇の信頼、「将軍継嗣問題」では一橋慶喜を推していた事や公武合体を推進した事など、岩倉具視と共通点もあるにも関わらず、その運命は対照的です。中川宮一橋慶喜、そして岩倉具視との対照的な運命について。

中川宮の出自と前半生

中川宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第四子として文政7年(1824年)2月に産まれます。伏見宮家は世襲親王家の中でも最も歴史が古く(その成立は南北朝時代まで遡る)また、敗戦後に皇籍離脱した宮家(よく話題になる竹田宮や東久邇宮など)は全てこの伏見宮家の系譜ですね。

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安政の大獄まで

天保7年(1836年)仁孝天皇(孝明天皇の父)の猶子となり天保8年には親王宣下を受けます。




少々余談ですが、「親王」というのは「世襲親王家」に産まれれば、いや天皇の実子であっても、自動的になれるものではないんですね。あくまで「親王宣下」を受けてはじめて「親王」を名乗れる。因みに、親王宣下を受けないと例えば「以仁王」のように「王」となります。




皇位や宮家の継承の可能性が低い場合には結構定番ではありますが、この中川宮(中川宮と名乗るのはまだ先ですが・・・)も天保9年(1838年)には得度して「尊応」の名を賜り、奈良興福寺塔頭の一乗院の門主、嘉永5年(1852年、つまりペリー来航の前年)青蓮院門跡の第四十七世門主にとなり名も尊融と改めます。




奈良の興福寺時代には丁度奈良奉行を務め目覚ましい活躍をしていたのが阿部正弘秘蔵っ子の1人川路聖謨。川路聖謨は興福寺や東大寺から佐保川の堤まで、数千本の桜と楓の木を植え、今の「桜の名所奈良公園」の元を作りますが、この頃中川宮とも交流があったと言われています。

大獄の嵐に飲まれる

中川宮(この頃は青蓮院宮や粟田宮と呼ばれている)は所謂「条約勅許問題」では条約締結に反対。また、「将軍継嗣問題」では一橋派に与してしまいます。




当ブログでは度々触れていますが、この頃の「攘夷派」は基本的に「攘夷をするのは幕府」という考えであり倒幕などは思考していません。「戊午の密勅」の内容に関しても、



  • 勅許なく日米修好通商条約を結んだ事への説明の要求
  • 御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令
  • 上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書


  • といった内容であり、至極当然な反応ともいえる。
    「条約勅許」に関してはわざわざ幕府から「勅許を求めて」来たので「もう少しよく考えて」と回答したのに条約を締結している訳ですから当然の反応です。(そもそも幕府に大政を委任しており、今迄、例えば日米和親条約、締結も勅許など求めて来ていないし、事後報告だった・・・)
    また、幕政改革に関しては幕府側にも言い分はあるとは思いますが「幕府に協力して」とあり、全く反幕府的ではない。




    しかし、「大獄の嵐」は当時の公家衆の想像を超えて吹き荒れます。



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    此の当たりの過剰反応に関しては「京の大老長野主膳」の存在が大きかったと思っています。




    安政6年(1859年)には「隠居永蟄居」を命じられて相国寺塔頭の桂芳軒に幽閉。青蓮院宮を名乗れなくなり「獅子王院宮」と呼ばれるようになります。

    岩倉と中川宮

    下級公家の岩倉と親王である中川宮を比べるのはおこがましくはありますが、この二人の関係は中々味わい深いと思うんですよね。




    前述の通り「大獄の嵐」は公家衆にとっては寝耳に水の大事件で、まさかここまでコトが大きくなるとは考えていなかったと思います。




    当時、岩倉もまた「条約勅許問題」に関しては「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物として活躍し頭角を現していた頃です。岩倉も幕府の「強烈な反応」に当惑したと思います。




    しかし、岩倉はこの「大獄の嵐」を乗り切ります。




    むしろ、岩倉の維新前の「全盛期」はこの頃から始まったと言えるかもしれません。岩倉は井伊大老の派遣した京都所司代酒井忠義と良好な関係を築き、孝明天皇の願いでもあった公武合体へと邁進。




    大獄の嵐に「呑まれた」中川宮。大獄の嵐をむしろ「自らの力とした」岩倉具視。




    二人とも「公武合体派」で思想的に大きな違いがなかったにも関わらず、その安政の大獄における運命は対照的なものでした。




    そして、この中川宮と岩倉二人の運命はこの後も対照的な変遷を経る事になります。

    中川宮、岩倉と対照的な運命

    大獄の嵐に呑まれ「隠居永蟄居」を命じられた中川宮。中川宮は将軍継嗣問題では「一橋慶喜」を推しておりましたが、後に、その事が「復活」のきっかけになります。

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    岩倉の蹉跌と中川宮復活

    安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変における井伊直弼が横死します。幕府にとっても、そして朝廷、薩摩藩など「大獄の嵐」の影響が大きかった者にとってもこれは衝撃でした。




    当時はこれで幕府と水戸藩との戦(犯人が水戸出身のため)や、彦根藩(井伊大老の出身)が水戸藩を攻めるとか、また、薩摩藩と彦根藩の戦(薩摩出身者も加わっていた)といった噂がたちますが、結果的には犯人は処分(切腹)となり、また幕府から水戸や薩摩への処分はありませんでした。




    この後「和宮降嫁(文久元年)」などもあり、「大獄の嵐」で「永蟄居」の処分を受けた獅子王院宮こと中川宮は文久2年(1862年)には処分が解かれます。




    そして。




    この頃、岩倉は「蹉跌」を踏みます。




    島津久光の上洛(所謂「文久の改革 )で薩摩藩の大久保等知恵を貸したまでは良かったのですが、薩軍が江戸へ出府すると、朝廷内は「過激攘夷派」が台頭。また、薩摩藩の代わりに「長州藩」が京で力を持ちます。




    ここで、岩倉は「和宮降嫁」の責任を問われる形となってしまい表舞台が去る事に・・・。



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    あと、これは余談ですが和宮降嫁に関して、



    「井伊大老横死で失墜した幕府の権威を・・・」



    と、いった文脈で語られる事が多いですが井伊大老存命時で「大獄の嵐」が吹き荒れた安政5年には早くも「和宮降嫁」に関しての検討がなされています。




    岩倉が過激攘夷派からの吊し上げを受けて表舞台を去ったのと前後して中川宮は国事御用掛として朝政に参画、翌文久3年(1863年)には還俗して「中川宮」の宮号を名乗るようになります。孝明天皇としては岩倉を失った後の相談役という感じでしょうか?




    そして、今度は中川宮に運命が味方をします。




    久光の江戸出府の結果一橋慶喜が将軍後見職となり、新たに「京都守護職」が置かれ会津藩が京へ進駐。また、この頃は「公武合体派」であった薩摩藩は我が物顔で朝廷を跋扈し過激な攘夷を唱える長州の台頭は面白くありません。




    中川宮は一貫して「公武合体派」であった孝明天皇の内意を引き出すと、幕末最強の薩摩藩とそれに準ずる実力部隊を持つ会津藩と連携。所謂「八月十八日の政変」で長州派の公家を駆逐します。




    中川宮は岩倉と入れ替わるように復権を遂げる事になります。

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    中川宮の蹉跌

    中川宮は一貫して公武合体派であり、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推しています。それは、今回「八月十八日の政変」を主導した薩摩藩も同じ。




    一橋慶喜と薩摩藩は友好関係(参預会議)を維持できると考えていたと思います。




    しかし。




    一橋慶喜が考える未来と少なくとも薩摩藩が考える未来は大きく異なっていたようですね。慶喜からすれば「外様」である薩摩藩が幕政に参画することを警戒します。久光にはそのつもりはなかったでしょうが、朝廷を薩摩に奪われる事を警戒したものと思われます。




    というのは、薩摩藩は幕末随一の軍事力を持ちますが、もう一つ、幕末随一の「金満大名」でもあった訳です。



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    長州が朝廷内で力を得たのは「尊王攘夷反幕府」の思想が共感を得た部分も勿論あったでしょうが、それ以上に「カネの力」の影響もバカには出来ません。




    ドラマなどでよく描かれている有名な場面。




    伊達宗城、松平春嶽、島津久光と中川宮との酒宴で、慶喜は参預諸候を罵倒すると同時に中川宮に対しては、



    「これからカネは幕府が面倒みる!」



    と、宣言。
    中川宮はこの後も一橋慶喜と運命を共にする事になります。

    岩倉と入れ替わるように失脚

    中川宮の力の源泉は一貫して「公武合体派」であった孝明天皇の信頼、そして、一橋慶喜(幕府・徳川慶喜)の擁する軍事力です。




    しかし、孝明天皇の崩御により長州派公卿の復権、また、頼みの慶喜の幕府の軍事力も「薩長同盟」によりその圧倒的な優位性を失います。




    中川宮の誤算は「薩摩藩と一橋慶喜」の関係が「良好な物ではなかった」事でしょうか。




    孝明天皇崩御と前後して表舞台へと復帰した岩倉具視と入れ替わるかのように、中川宮は広島藩預かりとなり明治5年(1872年)に伏見宮に復籍するまで表舞台からは姿を消すことになります。




    面白いのは岩倉具視は「謹慎中」に公武合体派から倒幕派へ宗旨替えをしています。これはある意味でこの時期に朝廷からも「公武合体派」の孝明天皇からも隔離されていた結果ではないかと思います。




    岩倉具視と中川宮の運命はまさに対照的ではありますが、少しタイミングがズレていたら、



    岩倉具視は中川宮
    となり、また
    中川宮は岩倉具視

    であったかもしれません。

    維新後と子息

    最後に、中川宮の維新後とその子息について。維新後ようやく京へ戻る事が許された後の明治8年(1875年)に新たな宮家である「久邇宮」を創設します。




    その後明治8年(1875年)には伊勢神宮の祭主への就任や皇學館大学の創設へ尽力するなど、一貫して在野にあり政府の要職に就く事はありませんでした。




    明治24年(1891年)10月67歳でこの世を去ります。




    因みに、「久邇宮」とはどこかで聞いた事のある名前ではないでしょうか。




    中川宮(維新後は久邇宮朝彦親王)の第九王子として1887年(明治20年)に誕生した稔彦王は、後に日本史上初の、そして少なくとも2018年に至るまでは最後の、皇族内閣の首班となる東久邇宮稔王です。




    東久邇宮稔彦王は1990年まで(享年102歳!)ご健在であり、そして、その子息の1人俊彦王は2015年までブラジルでご存命でした。




    今年(2018年)、徳川幕府最後の将軍であった慶喜のお孫さんが95歳で亡くなったというニュースがありましたが、明治維新は「意外と遠くはなかった過去」なのかも。そして「遠い過去」になる前に色々と話を聞くべきであり、話をするべきなのかなとも感じます。




    以上、中川宮と一橋慶喜!岩倉具視と対照的な運命について。

    大河姫

    今宵は此処までに致します。

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