木津川口の戦いと有岡城について。毛利水軍と織田水軍の大阪湾の制海権をめぐる戦いは「荒木村重の謀反」とも関係があります。当時の戦況はどのようなものだったのか?荒木村重の謀反は「無謀」だったのでしょうか?木津川口の戦い有岡城の関係と鉄甲船についても。

織田と毛利一進一退

天正5年(1577年)に毛利水軍は約5千の兵力で播磨は阿賀に上陸。この時約5000の兵力で上陸した毛利水軍は、黒田官兵衛の機転で追い返す事ができましたが、本願寺と結んだ毛利は兵糧を本願寺へ運び入れます。その時に起きたのが「第一次木津川口の戦い(1576年(天正4年)7月)」ですね。


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本屋大賞を受賞した「村上海賊の娘 上巻」に詳しいですが、毛利水軍の前に織田の水軍は手痛い敗北を喫します。以降大阪湾の制海権は毛利に握られている状況ですね。




そしていよいよ第二次木津川口の戦いです。




2014年の大河ドラマ軍師官兵衛では黒田官兵衛が謀反を決意した荒木村重を、



「この謀反に勝機はない!」



と、説得していますが、少なくとも「負けない戦い」をできる可能性はまだあったと思われます。




摂津の有岡城は堅牢な総構えの城であり、また豊富な兵糧を運び入れていました。

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第二次木津川口の戦い

第二次木津川口の戦いは天正6年(1578年)11月6日。因みに、荒木村重が有岡城で謀反を起こしたのがは同じく天正6年の7月。




荒木村重の気持ちを考えると・・・。



無敵の連合艦隊が破れた・・・!



みたいな感じだったのかな?




第二次木津川口の戦いは「鉄甲船」なる新兵器を使用した織田の大勝利に終わり織田軍は前回の雪辱を果たします。




この「鉄甲船」は良く知られている(フロイスなんかもこの「新型艦船」には触れている)割りには実はその実態は今一つよく分かっていないんですよね。当然ですが当時の技術で「鉄製」の船を建造する事は出来ません。本格的な「鉄の船」が登場するのは19世紀後半に入ってから。因みにこれは西洋列強も大きく変わりません。




基本的な船舶の構造は大航海時代と大きく変わらないまま


アルマダ開戦
(1588年)


トラファルガーの海戦
(1805年)


そして


クリミア戦争
(1853年)


位までは基本的には木製の船が使われています。




因みに「黒船来航」で知られるペリー艦隊も鉄製ではありません。さらに、4隻のうち半数の二隻は帆船です。船が黒いのは腐食防止用の樹脂が塗られていたためです。
(世界最初の装甲艦は仏海軍ラ・グロワール(1859年))




おそらく、九鬼嘉隆が建造したと言われる「鉄甲船」も毛利水軍(村上水軍)が得意とした焙烙玉(ほうろくだま)による近接戦闘における火炎攻撃による炎上沈没を防ぐため「防火の為の鉄」を甲板等に張り付けたものではないかと思われます。




毛利水軍は得意の近接戦闘による焙烙玉火炎攻撃が効かず、さらに、近づいたところを大砲・鉄砲で次々撃破されます。




かくして、瀬戸内海全域に呼んだ毛利水軍は大阪湾の制海権を失う事に。

有岡城、未だ落ちず

1578年11月の第二次木津川口の戦いでの毛利水軍の敗北は両軍にとって、


「戦国のミッドウェー海戦」


とでもいうべき戦いでした。




この後、そもそも荒木村重謀反のきっかけを作ったとも言える中川清秀・片山右近が早々に寝返ります。



※関連記事:→荒木村重と中川清秀の数奇な運命


しかし、それでも荒木村重率いる有岡城の士気はまだまだ旺盛だったと伝わります。木津川口の毛利水軍敗北、中川清秀・片山右近なども織田方への寝返りの後の1579年5月。




織田方の軍使が有岡城へ兵糧を手土産に軍使として入ります。荒木側からも返礼として「新鮮な魚を含む」兵糧が送り届けれられたとの記録があります。




織田方は使者と装い荒木側の士気を確認したわけですが、荒木側は士気も高く、さらに兵糧もまだ豊富と思われ織田方はさらなる長期戦を覚悟したと伝わります。




荒木村重の武将としての力量を伺う事が出来ますね。村重は有岡城でひたすら毛利の援軍を待ちますが、制海権を奪われた毛利軍はやって来ません。




荒木村重は「自ら援軍を要請に行く!」と有岡城を単身脱出。しかし、この事が致命傷になります。




村重脱出は秘匿されてはいましたが、それが織田に漏れると織田方は調略を積極的に行います。難攻不落と言われた有岡城も「内」から崩れる事に。




天正7年(1579年)11月19日。




ついに有岡城は開城し玉砕します。




この戦いの後に石山本願寺も開城します。ただ、こちらは「朝廷の斡旋を入れての講和」となります。本願寺顕如は石山本願寺を退去。畿内は完全に信長の施政下へ入ります。




もし、第二次木津川口の戦いも毛利の勝利に終わっていれば、有岡城も当分落ちなたかったとも考えられますね。つまりは謀反当初は必ずしも「敗北必至」の無謀なものではなかったのではないかと。




以上、木津川口の戦いと有岡城!織田鉄鋼船VS毛利水軍について。

大河姫

今宵は此処までに致します。