人見絹江は女子陸上が初めて正式種目となったアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場、そして初のメダルを獲得しています。しかし、日本には人見絹江と切磋琢磨した陸上選手の姉妹がいたのです。人見絹江の活躍と悲劇、そして寺尾正・文姉妹との関係について。
人見絹江の来歴とアムステルダムオリンピック前の活躍
人見絹江は明治末期の1907年1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現在の岡山市南区福成)農家の娘として誕生しています。当時は上級の学校へ行くのは一部の子息だけ。人見家のように農業を営む当時の日本の一般家庭の常識では義務教育以上の学校への進学は非常珍しい。しかし、絹江の父猪作は娘を岡山県高等女学校へ進学させています。ここから「天才」の活躍が始まるのです。
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文武両道の才媛
明治維新以降、教育分野では女性の社会進出が(他の分野と比較するれば)認められるようになります。19世紀の欧米列強の間でも「教育分野での女性人材の活用」は有効とみなされていた影響を如実に受けていたからでしょうね。
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一応「才媛」であれば上級の学校(師範学校や高等女学校)へ上がり教職に就くというキャリアの道が出来初めていました。
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人見絹江の父猪作は当時としては開明的な人物でこれからは女子であっても学問が必要と考えていたことや、上級の学校を卒業すれば「教職」という仕事に就く事が出来ると考えていた節もあると思います。
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大正9年(1920年)4月に岡山県高等女学校へ進学します。
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人見絹江が岡山県高等女学校へ入学した年は丁度アントワープオリンピックが開催された年ですね。このアントワープオリンピックは日本にとっても意義深い大会でした。
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男子テニスで熊谷一弥がシングルスと柏尾誠一郎と組んだダブルスで日本初のオリンピックメダル(銀メダル)を獲得しています。
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人見絹江もオリンピックでの日本人選手の活躍に触発されたのかもしれませんね。
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女学校ではテニス選手としてとして大活躍します。また、学問も決しておろそかにはしていません。当時から文学的資質は学内では良く知られていたそうです。
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[char no=”1″ char=”大河姫”]この辺りは二階堂トクヨ女史と重なりますね。二階堂トクヨ女史も文学少女で、当時国文学者で歌人としても知られていた尾上柴舟に師事して和歌に凝っていた。[/char]
人見絹江はテニスに打ち込む一方で、陸上にも挑戦しており、そこでも優れた才能を発揮します。
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そして、人見絹江の運命を大きく変える出来事が大正12年(1923年)11月に起こります。
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岡山県女子体育大会に陸上競技選手として出場し走幅跳で4.67メートルの日本最高記録で優勝してしまうのです。この活躍に当時の校長は女子体育の二階堂体操塾への進学を勧めます。
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二階堂体操塾はその名の通り「二階堂トクヨ」によって設立された私学校・私塾ですが当時最先端の実践的な女子体育教育を行っていました。
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設立当初の二階堂体操塾 引用元: 宮城県広報
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二階堂体操塾の授業 引用元: 宮城県広報
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人見絹江は二階堂トクヨの元で体育を学び、その才能をさらに伸ばします。
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三段跳びでの当時の世界記録を始め、岡山県女子体育大会や全日本選手権で世界レベルの優れた成績を叩きだします。
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1925年に二階堂体操塾を卒業すると一時期体育教師として京都の学校に赴任しますが、二階堂トクヨの依頼で体操の技術講師として台湾各地を回り、帰国後は二階堂体操塾の専門学校認可を手伝う事になります。一つの学校での教職員ではなく日本の女子体育の発展に寄与する道を選んだんですね。
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その間も各種大会には出場し世界レベルの記録を出し続けます。
最良の時、1926年
人見絹江の活躍は当然全国的にも知られるようになり、当時「スポーツ」に注力していた新聞社からも注目されます。
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1926年4月、人見は大阪毎日新聞社に入社すると運動課に配属。今でいう「実業団」の選手のような形で、競技も続け記録を更新し続け充実した日々を過ごします。
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この頃には人見絹江の活躍に触発されるかのように若い有望な選手が次々と現れ始めます。彼女にとって最も嬉しかったのは「ライバル」の登場なのではないかと思います。
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その中でも特筆すべき活躍をしたのが双子の寺尾正・文姉妹でした。
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人見絹江よりも5歳程若い「天才姉妹」は競うように日本記録を塗り替えていきます。
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この年の6月に開かれた第2回女子体育大会は人見絹江にとっては希望の象徴のような大会ではなかったかなと感じます。模範競技として行われた400mリレーでは人見絹江、そして寺尾正・文姉妹、松翁俊子を加えた、日本陸上女子のドリームチームで52秒2の日本新記録を出しています。
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さらに、8月には初めての海外遠征。
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スウェーデンで開催された第2回国際女子競技大会に出場し、走幅跳で5m50の世界記録を始め、また立ち幅跳び優勝、円盤投でで2位、100ヤード走は3位など、輝かしい実績を残し「最優秀選手」として表彰もされます。
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ただ、一方で課題も感じる事も多かったようです。
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専属のコーチと共に「チーム」で競技をする重要性など、欧米列強の優れた部分を吸収し、後に著作や講演を通して日本のスポーツ界の向上の為の啓蒙活動をしております。
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2年後に迫ったアムステルダムオリンピックでは初めて「女子の陸上」が認められるのですが、人見絹江は「日本のライバル達」と共に世界に挑戦する事を思い描いていたのではないかと思います。
人見絹江のライバル!寺尾正・文姉妹
人見絹江が岡山で産声を上げてから約5年後の明治44年(1911年)11月。東京府東京市本所(現在の東京都墨田区石原)に可愛らしい双子の姉妹が誕生します。後に、人見絹江に続く「天才姉妹」として黎明期の日本陸上界を牽引する寺尾正(きみ)・文姉妹です。
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天才姉妹
寺尾正(きみ)・文姉妹は東京府で牛乳販売店を営む寺尾鐵二・政の二女・三女として誕生します。
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関東大震災で自宅を焼失するといった不幸もあったようですが、寺尾一家は無事震災を乗り越え、姉妹は震災の翌年1924年東京府立第一高等女学校へ入学します。当時は姉妹が入学した東京府立第一高等女学校は、
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「浅草の一女・小石川の二女(竹早)・麻布の三女(駒場)」
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と、並び称さる名門女学校ですね。二人は入学後に姉妹揃って陸上を始め、さっそくその年の第2回女子選手権で華々しい活躍を見せます。姉の正は50mを7.0秒、妹の文は100mを14.0秒のそれぞれ当時の日本記録で優勝。
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→いだてんの村田富江は実在する?第二高女にいた?
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翌1925年には第2回明治神宮競技大会の50mで姉の正が人見絹江と直接対決。結果は人見絹江の勝利に終わりますが、優勝タイムは7.0秒と正の自己ベストと同じタイムで実力は拮抗しておりました。
人見絹江と寺尾正・文姉妹の記録の応酬!
寺尾正・文姉妹は切磋琢磨するように記録を伸ばしていきます。
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1926年5月女学校連盟第1回競技会では正が50mを7.0秒の日本タイ記録で優勝、妹の文も100mを13.0秒日本タイ記録で優勝。
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同年10月の第3回明治神宮競技大会では妹の文が100m予選で12秒7の世界最高記録。決勝は世界記録更新はならなかったものの13.3秒で優勝。
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人見絹江も負けてはいません。
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1927年6月第7回大阪女子運動大会では100mで寺尾文の持つ記録を破り12.4の当時世界タイを記録で優勝。
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同年8月全日本陸上競技選手権大会では50mで寺尾正の持つ7.0秒を破る6.7秒で優勝。100mも自己ベスト更新はならなかったもののもちらも12.8秒で優勝。
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同年10月、第6回陸上競技選手権大会は50mを6.5秒、100mは再び世界タイ記録の12.4秒で優勝。
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そして、翌11月の第4回明治神宮体育大会では人見絹江と寺尾正・文姉妹の直接対決は大接戦。
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50mは6.5秒、100mは12.5秒でからくも人見絹江が寺尾正・文姉妹に勝利。50mも100mも2位と3位はそれぞれ文・正という結果でした。
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人見絹江は勿論、寺尾正・文姉妹もまさかこの大会が最後のレースとは思っていなかった事だと思います。
人見絹江とアムステルダムオリンピック
人見絹江と寺尾正・文姉妹が大接戦を繰り広げた1927年11月の第4回明治神宮体育大会。翌年のアムステルダムオリンピックは初めて「女子の陸上」が正式種目となります。
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引用元: 人見絹江と寺尾姉妹
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人見絹江と寺尾正・文姉妹の当時の写真を見ると三人とも希望に溢れているように感じます。しかし、寺尾正・文姉妹は第4回明治神宮体育大会を最後にトラックに現れる事はありませんでした。
突然のスキャンダル
寺尾正・文姉妹の選手生命はその絶頂期に唐突に終わりを告げます。
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人見絹江に牽引され俄然注目されるようになった日本の女子陸上。そして、女王人見絹江に挑戦する可憐な女学生寺尾正・文姉妹存在はアイドル的な人気を博していました。
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多くの人に憧れられ話題になることは決して悪い話ではありません。それだけ裾野が広がる事で若い有望な人材が陸上選手になりたいと思うかもしれない。
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しかし、この人気は思わぬ事態を招きます。
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まさにアムステルダムオリンピックが開催される1928年正月。雑誌「婦人倶楽部」に双子の美人陸上選手を主人公とする久米正雄の小説『双鏡』が発表されます。
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その内容は双子の天才陸上選手が一人の男を奪い合うといったスキャンダラスな物語だったのです。
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勿論「フィクション」というテイではあるのですが、娘たちが大衆の好機の目にさらされる事に姉妹の父、寺尾鐵二は激怒。婦人倶楽部に抗議する一方で姉妹を陸上競技から引退させます。
人見絹江の悲壮な決意
アムステルダムオリンピックは目前に迫っていました。
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当時世界TOPレベルにあった寺尾正・文姉妹がアムステルダムオリンピックに出場すれば、当然メダル獲得の可能性は高かったと思われます。
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いや、短距離では日本が表彰台独占という可能性さえあったでしょう。
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人見絹江は自ら姉妹の父鐵二を説得しますが、結局アムステルダムオリンピック出場は叶いませんでした。
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結局、人見絹江は女子選手としてはたった一人でアムステルダムオリンピックへ出場します。
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人間は勝手なもので人見絹江へのメダル獲得の期待は非常に高いものがありました。2年前の国際女子競技大会での活躍もあり海外からも注目度も高く、たった一人で日本女子陸上の未来をを背負う重圧は大きい。
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もし、ここで期待を裏切ってしまえば芽生え始めた、
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「日本女子陸上の未来」
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も摘んでしまう事になる。
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そして、この重圧に押しつぶされるかのように最も自信を以ていたずの100mで準決勝敗退。決勝に進む事さえも出来ませんでした。
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「このままでは日本に帰れない」
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人見絹江は一応女子陸上の種目すべて(100m、800m、走高跳、円盤投)にエントリーしていたものの、得意としていたのは短距離で中距離走はほとんど練習もせず、事実上100m一本に勝負を掛けていました。
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しかし、急遽800mにも出場。
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ここで、執念の銀メダルを獲得。
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これが記念すべき女子オリンピックの初メダルとなります。
人見絹江の最期、「軽井直子」
アムステルダムオリンピックでのメダル獲得の後、一度は競技人生の隠退を決意した人見絹江はですが、国際女子競技大会を創設したアリス・ミリアからの励ましもあり、プラハで開催される予定の第3回国際女子競技大会に向けて、トレーニングを開始します。
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同時に「競技者」としてだけではなく後進の育成の為にも力を尽くします。自分のように「一人で戦う」のではなくもっと多くの才能に国際舞台で力を発揮して欲しい。その為には多くの資金も必要です。
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人見絹江はトレーニングの傍らで女子陸上の裾野を広げるための講演や執筆活動を精力的に行います。女学生時代から文才も認められたいた事もあり、彼女の書く記事は好評で、その著作も評判を呼びます。
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努力の甲斐あって後にロサンゼルスオリンピックの代表となる中西みちを始め、5人の選手と共にプラハで行われた1930年9月第3回国際女子競技大会に出場します。走り幅跳びの優勝を始め優れた成績を残し個人得点で優勝とはならなかったものの2位の成績を収めます。また、チームとしても18カ国で4位。
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その後、メンバーと共にワルシャワでの対ポーランド対抗戦、日英独女子競技大会、対フランス女子対抗競技ヨーロッパ各地を転戦。
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いずれも優れた成績を残しますが、国際女子競技大会で期待されていた総合優勝や個人での優勝が叶わかったことや、メダルを期待された100mでの成績が奮わなかった(準決勝敗退)事など日本国内の雰囲気はやや冷たいものでした。
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この日本の世論に人見絹江はいたく失望したと言います。何より、一緒に戦ったメンバーの事を心配したようですね。
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帰国後、人見絹江は体調が優れなかったものの、僅か1日実家で休息すると支援者への御礼の挨拶回りなどをこなします。
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この時の無理が致命傷となったようです。
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翌1931年3月に吐血。
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肋膜炎で阪大病院別館に入院すると、半年ほどの闘病の後肺炎により24歳で亡くなります。
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亡くなったのはアムステルダムオリンピックの800メートル決勝から丁度3年を経過した8月2日。
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その病室は人見絹江ではなく「軽井直子」という表札がかかっていました。
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世間から注目を浴びる事を嫌っての事だと言われます。
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その生涯はまさに彗星のように短いものでしたが、日本の女子スポーツ界、いや世界の女子スポーツ界にも大きな事績を残しています。
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以上、人見絹江と寺尾正・文姉妹!幻となったアムステルダムオリンピックメダル独占について。

今宵は此処までに致します。
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日本の戦前期に活躍したアスリートたちを見て気付くのが皆さん比較的長寿な人が多いという事です
・三島弥彦(享年67歳)
・野口源三郎(享年79歳)
・織田幹夫(享年93歳)
・金栗四三(享年92歳)
・前畑秀子(享年91歳)
といった具合に皆さんその時代の平均寿命を全うした人ばかりな中で人見絹江の享年24歳というのは際立って短命なんですよね…ライバルの寺尾姉妹が80過ぎてもピンピンしていた事も考えると享年24歳は悲しすぎます…
houzi様
いつもコメントありがとうございます!
そうですね・・・。
確かにみんな長生き。
寺尾姉妹は平成に入ってから人見絹江の思い出を語ったりしていますからね。
・・・いだてんでで人見絹江はけっこうしっかり描かれると思うんですけど、
号泣不可避かと思っています・・・(涙)