平岡円四郎。一橋慶喜の側近でもあったこの男は若い頃からその聡明さは良く知られ、西郷をして「先輩なら」と言わしめた藤田東湖、幕末期きって俊才川路聖謨(としあきら)をにもその才能を愛されていた。また、日本資本主義の父渋沢栄一もその才覚について書き残しています。しかし、水戸藩の「内ゲバ」の犠牲に。平岡円四郎と水戸の不幸について。

稀有の人材平岡円四郎

平岡円四郎は文政5年(1822年)の産まれ。一橋慶喜が天保8年(1837年)より15歳程年上。産まれは旗本岡本家の出でしたが、同じく旗本平岡文次郎の養子となり家督を相続。弘化4年(1847年)に慶喜(当時の名は松平昭致)が一橋家を相続する際に、中根長十郎等と共に慶喜の「太刀持と露払い」よろしく慶喜付の家臣として共に一橋家へと入っています。



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才気あふれる人物

幕末期の「人物」と言えば誰か?かの西郷隆盛は後に先輩なら「藤田東湖先生」であると述べています。
(因みに、後輩なら橋本左内)




その藤田東湖や幕末期切って俊才で対露交渉ではプチャーチンと丁々発止のやり取りを展開した、川路聖謨から将来を嘱望され、一橋慶喜付(後々の将軍就任も考えて)に推挙されています。




しかし、ご存知の通り、所謂「一橋派」はその最大の後見人であった阿部正弘の突然の死、さらに近衛家を通じて朝廷とも懇意であり、阿部正弘亡き後は一橋派唯一の砦であった島津斉彬により潰えます。



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平岡円四郎もまた「一橋派の危険人物」とされ、慶喜が「謹慎」となったのを機に左遷という形に。




余談ですが、この頃平岡円四郎を高く評価していた藤田東湖は既に「安政の大地震」で母を助けようとして圧死、また、川路聖謨はその手腕を買われて対米外交に奔走しますが、日米修好通商条約調印の「詰腹を切らされる」形で罷免の憂き目にあっています。

失脚から復活と活躍

所謂「文久の改革」で慶喜が謹慎を解かれ将軍後見職に就任すると平岡円四郎も一橋家に復帰、その後、慶喜が上洛するとこれに随行し、「公武合体派」である慶喜の寵愛を受けて一橋家家老(この頃近江守にも就任)となります。




元々、水戸藩出身とは言え10歳で一橋家に入っている慶喜には「子飼の配下」が少ない。幼少の頃から良く知っており、さらに幕末期の英雄(になりそこねた?)俊英達からも、その才覚を認めれれていた平岡円四郎の存在は心強かったはずです。




しかし、それは一方で「過激攘夷派」が多かった水戸藩士の怨嗟を集めてしまいます。




当時、慶喜は「攘夷派」と目されて(実際、体裁としては攘夷を吹聴していましたが・・・)いましたが、一向に攘夷が進まないのは「君側の奸」である平岡円四郎が邪魔をしているとまことしやかに囁かれていました。




この辺りは昭和期まで続くアレですね。



「御上はご存知ない!」



水戸藩士の江幡広光、林忠五郎に斬られています。




慶喜はこの期間に同じ「水戸出身」の者に平岡や中根長十郎といった子飼の家臣を殺害され、手足をもがれていく形となってしまいます。

渋沢栄一との関係

因みに、この頃平岡円四郎はある「大仕事」を為しています。




「日本資本主義の父」渋沢栄一を慶喜に推挙し、後に幕臣となるきっかけをつくっています。渋沢栄一は水戸の出身ではありませんが江戸に遊学している時に平岡円四郎の知遇を得ていました。




世の中が「騒がしく」なってくると江戸にいた渋沢栄一も「尊王攘夷に燃えて」単身入洛。しかし、時節が悪く(いや良く?)8月18日政変で頼るべき「攘夷志士」が一掃された京で行き詰った処、皮肉にも「公武合体派」の平岡円四郎の「引き」で図らずも幕臣となっています。




その渋沢栄一が平岡円四郎についての印象「才覚の凄さと危うさ」について書き残しています。



私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやうにして呉れた人は平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。



人生とはタイミング、流れ。




渋沢栄一が京へやってくるタイミングがもっと早かったら。




彼は「攘夷派の過激志士」として長州藩と共に禁門の変で命を散らしていたかもしれません。




また、もし入洛があと少し遅かったら。




既に平岡円四郎はこの世に亡く、当然一橋家に仕える事も、幕臣となる事も、勿論、万国博覧会(1867年)に将軍の名代に随行して出席する事もなかったでしょう。




こういった事を見聞きするたびに人生で何よりも大事なのは「流れ」「タイミング」である事を思い知らされる気がします。

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水戸藩の不幸の始まり

「先輩なら藤田東湖先生を押す」と言わしめ、さらに、斉彬が亡き後は「頼れるは水戸」と斉彬の「卒兵上京計画」の代理を水戸に演じてもらおうとまで考えた西郷。




水戸藩と言うと昨今では「徳川斉昭の頑迷さ」さらに「尊王攘夷思想の過激さ」からあまり高い評価を得ていません。




徳川慶喜に関しても評価が割れていましたが、こちらも批判的な論調の方が目立つようになっていますね。明治維新を見直すという機運の影響もあるかもしれません。




おまけですが、「助さん格さん!」で有名な水戸黄門(水戸光圀)も、若い頃の「ヤンチャぶり」が一般人にも知られてきており、評価を落していますね。まあ、これもネット社会の悪影響!?なのかもしれませんけど。




続いては水戸の不幸の始まりと終わりについて。

見栄を張る

水戸藩は所謂御三家の一角ですが尾張家が62万石、紀州家が55万石に対して水戸家は28万石と、両家の半分程度の石高しか有していませんでした。




因みに「御三家」と言うと前述の通り「尾張・紀州・水戸」と考えがちですが、
そもそも、



「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」



とあり、少なくとも江戸時代初期においては、



将軍家・尾張家・紀州家


が御三家でした。
しかし、これに我慢がならない御仁が。それが、かの有名な水戸黄門こと徳川光圀です。




光圀は将軍を出す事が出来ないこと、尾張や紀州と比較して一段低く見られている事に我慢がならず、これへ対抗するため石高を「改定」してしまいます。




先程水戸家は28万石と記載しましたが、一般的には35万石というのが水戸家の石高です。これは光圀の代に当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め石高の見掛けを変えてしまったのです。現代で言えば「粉飾決算」のようなものですね。




ただ、後にこれが幕府にも認められますがたまったものでははないのが民百姓です。水戸藩は参勤交代こそありませんでしたが、所謂「天下普請」などはその石高により負担が決まります。見栄をはった代償はそこに暮らす人々のくらしを直撃します。




また、「将軍の後嗣を出せない」という屈折した想いもあったのでしょう。光圀は後々「水戸学」と言われる学問、具体的には大日本史の編纂に血道をあげます。




今では「大楠公」と言えばそれなりに有名ですが、当時はそれほど注目されていなかった楠木正成を「大楠公」日本史上最大の英雄とし、足利尊氏を日本史上最大の朝敵とする。




穿った見方をすれば。




自分が決して就任する事が出来ない「将軍職の価値を相対的に貶めている」ともいえると思います。




まあ、ありますよね。




因みに私は現代の「貧しい」「無役の下級士族」なので「年収なんか人の価値に関係ない」とか、「サラリーマンの役職なんか無意味」ともっともらしい事を言っていますが、ホンネは年収三千両従三位中納言関東管領司令長官とかになりたいと思っています。はい。




後に日本を熱狂させる「尊王攘夷」がここで産声を上げます。水戸の不幸はこの時に始まったのではないかと思います。

斉昭の改革

斉昭と言えば頑迷固陋な攘夷論者というイメージが一般的かと思います。勿論、それは決して的外れとは言えな部分も確かにあります。まあ「大風呂敷を広げる」のが得意なんですね。また、光圀公以来の「女癖の悪さ」も祟り、あまり良いイメージは持たれていませんね。




しかし、それでも藤田東湖や会沢正志斉といった人材を登用し、諸藩の手本となるような藩政改革を実施したのは間違いありません。




西洋式の軍事調練を行い、那珂湊反射炉も建造、さらに最初期の西洋式軍艦も建造しています。




人材もあり、また改革もある程度までは上手くいった。




さあこれから!!




その時に本を襲ったのが「安政の大地震」ですね。この大地震で藤田東湖と戸田忠太夫を失います。

内ゲバは防げたか?

水戸藩はツキが無い。
この二人を地震で失いはしたものの斉昭は島津斉彬や松平春嶽と後に一橋派として慶喜を将軍継嗣に推し、ついに破れます。井伊直弼が大老となると斉昭と慶喜は謹慎、水戸藩は諸生党(対幕府恭順の保守派)と天狗党(対幕府強硬改革派)の間で血で血を洗う抗争になります。




私はこの時もし藤田東湖が生きていれば、水戸の内訌はここまで苛烈にならなかったのではと思うのです。




こう言うと、



「藤田東湖は過激な攘夷論者!」

「水戸内訌の発端は斉昭の藤田東湖をはじめとする下士層の登用!」

「斉昭のコントロールなど不可能!」



という反論もあるかと思います。




確かにその通りではあるんですよね。




ただ、私はですね。



「人間は変化する生物」



だと思うんですよね。
繰り返しになってしまいますが、藤田東湖かの大西郷が「橋本左内」と並べた人物です。また、安政の大地震の際に死の原因も母を助けようとして、崩れかけた家に戻って圧死。



「魅力的な人物」



だったのだろうと思うんです。藤田東湖程の人物であば「攘夷が事実上不可能」である事にも気付き、そしてその人間的魅力(西郷ばりの人間磁石!)として水戸を纏められたような気がしてなりません。




しかし、歴史は皮肉です。




水戸藩の攘夷論は益々過激となり紆余曲折を経てようやく政治の表舞台へと出た徳川慶喜を後ろから刺すような事ばかり・・・。




黄門様の始めた「水戸学」は諸刃の剣。それを使いこなせたのは可能性のある藤田東湖を失った時、その刃は水戸そのもの破滅へと導いたように感じます。




以上、「平岡円四郎と慶喜!平岡の最期が象徴する水戸藩の不幸」についてでございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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