月照と西郷の関係について。「将軍継嗣問題」で斉彬の密命を受けて京都で活動する西郷のカウンターパートとなったのが清水寺成就院の住職である月照です。月照は如何にして薩摩藩と近衛家の間に立つようになったのか?西郷と月照が共に入水するまでの関係に至る背景について!

月照が信頼を得た背景

月照は文化10年(1813年)大坂の町医者の長男として誕生します。西郷が文政10年(1828年)の産まれですから15歳ほど年上と言う事になります。叔父が成就院清水寺の住職であったことから文化10年には清水寺成就院に出家。天保6年(1835年)には住職となっております。何故、月照は近衛家とそして薩摩藩の信頼を勝ち得、そして最後は西郷と共に入水をすまでの関係に至ったのか?

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朝廷の不安

幕末、異国船が度々日本近海に現れるようになると、その対応に幕府は苦慮するようになります。所謂「幕末」はペリー来航があった嘉永6年(1853年)以降戊辰戦争までを指します。




この幕末に「将軍継嗣問題」や「条約勅許問題」など、朝廷も「政(政治)」に巻き込まれていきます。ただ、初めて朝廷が、特に「外交問題」が耳に入ったのは「幕末」より前。幕末の「薩英戦争」や「下関戦争」の遥か以前化政文化の華が咲く頃には、既に「文化露寇」という形で帝政ロシア(正確には帝政ロシアの国策会社)と戦闘も行われています。



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特に、文化露寇は朝廷にもその報告がなされたと言われます。こうした「異国の影」に朝廷は不安を感じます。



「幕府に政はお任せ大丈夫でおじゃるのか??」



当時の朝廷が「日ノ本の未来を憂えた」というのはいささか買い被りだとは思います。ただ、「恐怖」が朝廷を覆ったのは疑いようがありません。そして、その「恐怖」は武士階級が感じたものとは異なると思います。



「赤毛の異人が神聖な都に足を踏み入れるでおじゃるか!?」



しかし、当時は「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」において、武家と公家の接近は厳しく制限されています。

近衛家と薩摩藩、月照と西郷

江戸末期、阿部正弘、島津斉彬や松平春嶽などは「異国の脅威」を感じ、このままでは清国のように列強のいいようにされてしまうと幕政改革に乗りだしますが、そのような事を感じたのは何も幕府や雄藩、武士階級ばかりではありません。




僧籍にあった月照もまた、尊皇の心を持ち、日ノ本の将来を憂います。




月照は清水寺成就院の住職ですが、「寺社」と「朝廷」は切っても切れない関係があります。勿論、「世俗的」な権力は持ち合わせていた訳ではありませんが、清水寺には後の関白(将軍継嗣問題寺は左大臣)近衛忠煕や中川宮などが「歌会」などと称して度々出入りをしています。




近衛忠煕は月照の和歌の師でもありました。




近衛家と言えば薩摩藩とは浅からぬ関係があります。高輪下馬将軍とも評された「蘭癖of蘭癖」の島津重豪は、自らの娘「広大院」を時の将軍家斉に嫁がせていますが、その際に一度近衛家へ養女としてから輿入れをさせています。そう、篤姫を輿入れさせた時と同じですね。



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ただ、如何に「近衛家と薩摩藩」の関係があっても度々公卿と外様大名の使いが密談をしていては目立ちます。歌会などを通して「尊王攘夷の僧」として近衛忠煕の信頼を得ていた月照は薩摩藩との連絡係としては最適です。




西郷と月照は正に二人三脚で「将軍継嗣問題」に関して朝廷工作に奔走する事になります。

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西郷と月照、破れる

幕末に入ると「朝廷」の存在感がにわかに増大します。そして、その朝廷と「月照-近衛忠煕」ラインと通して「信頼関係」を構築している薩摩藩は有利な立場です。勿論、幕府は「武家伝奏」を通して朝廷に働きかけは出来ますがその「空気感」を知る事は中々難しかったはずです。




月照と西郷は恐らく自らの勝利を疑わなかったはずです。




しかし、ここに意外な人物が二人の前に立ちはだかります。
その名は長野主膳。



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長野主膳-九条関白ライン

後に、様々な公卿・公家が攘夷派の志士達と関係を構築していきますが、安政年間に公卿と強固な関係を構築出来ていたのは2藩しかないと思います。




一つは薩摩藩。




そしてもう一つは皮肉な事に




彦根藩。




そう、井伊大老の御国元です。




井伊直弼が大老となった時に大きな問題が二つありました。一つは「条約勅許(日米修好通商条約)問題」と「将軍継嗣問題」ですね。




此れまでは、(日米和親条約までと言ってよいと思います)幕府の政策に朝廷が異を唱える事はありません。日米和親条約においては「勅許」は得ていませんし、朝廷には事後報告でしたがそれに対して朝廷側から、特別な反応はありませんでした。




ただ、井伊大老就任前の事ですが、老中首座堀田正睦は条約勅許を得るために参内するものの勅許を得る事が出来ませんでした。「幕府が勅許を得に行く」事も前代未聞でしたが、「勅許が得られない」のも前代未聞。




大老や老中であっても朝廷の内部事情などは知りようがない(知る必要などなかった)というのが今迄でした。一応、体裁として「朝廷から政を委任されている」幕府の大老としては非常に苦しい処です。都の守りを任された彦根藩と言えども、そもそも朝廷にツテなどはない。




はずでした。




しかし、たまたま、運命のいたずらでしょうか。




井伊直弼が「外部から」召し抱えていた「長野主膳」は京都の公家衆にツテがありました。




長野主膳は時の関白九条尚忠の青侍(家人)島田龍章(左近)と旧知の間柄であり、朝廷内の雰囲気や九条関白の意向を知る事が出来ました。




島津斉彬-西郷吉之助
成就院月照-近衛忠煕
VS
井伊直弼-長野主膳
島田龍章-九条関白



この戦いは今一歩の処で、井伊大老に軍配が上がります。

西郷と月照入水

水戸密勅事件を経て、所謂「安政の大獄」が始まります。井伊大老からすれば「京都の大掃除」といった感じでしょうか。




余談ですが、此処まで「酷い」弾圧が行われた背景には、長野主膳が「水戸密勅事件」を把握できなかったためその影響を図る事が出来ず、強硬な弾圧を井伊大老に具申したためとも言われます。
(内容はハッキリ言って大した内容ではない)




この後、井伊大老の弾圧は過酷を極め、月照もその身辺に危機が迫ります。因みに、月照の弟は捕縛され獄死しています。




西郷は月照を守るためには「薩摩藩」へ逃すしかないと、一路薩摩を目指します。



月照は二人三脚で「将軍継嗣問題」に取り組んだことや、斉彬が亡くなり、吉之助が後追いを考えていた時に、



「誰が斉彬さんのご意思を継ぐのですか?」

「あんさんしかおらへんのでは?」



と、説得をされるなど特別な信頼関係がありました。




西郷は先に薩摩に入り月照受入工作をしますが・・・。




西郷吉之助の名は雄藩や尊王攘夷の公卿の間では知らぬ者がない程でしたが薩摩に戻ってしまえば「イチ城下士」に過ぎません。




結局、斉彬亡き後安政の大獄に脅える薩摩重役達を説得する事が出来ず月照は



「日向送り」
(事実上命を奪う)



の命が下ります。




西郷はそれを受入れると、日向への送り途中月照と共に冬の錦江湾へと身を投げます。恐らくは無理心中。月照に恐怖を出来るだけ与えないように不意をついて飛び込んだと言われます。




月照もまた、西郷の様子から全てを悟り、



大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも



と、時世の句読んだと言います。




月照は薩摩へ入るために貴重な体力を使い果たしていたのでしょう。西郷は九死に一生を得ますが、月照は帰らぬ人になります。




西郷はその事を生涯悔み続けたと言います。




以上、西郷と月照の関係についてでございます。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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