長野主膳井伊直弼と長野主膳は「安政の大獄」を主導します。長野主膳がいなければ、安政の大獄はなかった。井伊直弼の国学の師でもあり、家臣と言うには濃密すぎる関係。そして関白九条家を始めとする公卿との人脈。いったいどうやって「関白九条家」等京都人脈を築いたのか?前半生が殆ど明らかではない理由やある意味では「彦根藩の救世主」であった長野主膳について。

長野主膳、謎の多い前半生

長野主膳は上州長野氏(武田信玄を苦しめた長野業正が有名)の末裔とも言われますが前半生は謎の多い人物です。確かなのは天保10年(1839年)に紀州藩伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)に本居宣長の書物を求めて、滝野次郎祐の元を訪ねてからです。

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結婚と京へ出仕

長野主膳(当初は主馬を名乗る)は滝野次郎祐の妹多紀と恋に落ち結婚。滝野次郎祐の元に「国学の書」を求めて現れた時は25歳。しかし、この時既に国学への造詣は人の師にたるに充分な教養と素養を持っていいました。滝野次郎祐も同じ国学者としての共感もあったのでしょう。「この男なら」と妹を嫁がせています。




因みに、後に井伊直弼の元に正式に出仕した際の上申書には、



「伊勢国飯高郡滝村 滝野次郎祐の弟」



と、記載をされいたと言います。妻の兄の弟(義弟)。これで、書類審査が通ってしまうのは藩主となった井伊直弼の意向が色濃く反映されていたと言えます。




長野主膳は教養も風格もありました。結婚後は「私塾」のようなものを開催し生活の糧としていたようです。




幕末に多く開かれた私塾や本居宣長の私塾程の賑わいはなかったかもしれませんが、長野主膳の塾は評判となり、その評判が「埋もれ木」であった井伊直弼にも伝わり師弟の交わりを結んだと言われます。直弼と出会ったのは天保13年(1842年)と言われますが、直弼は長野主膳に心酔します。それは、藩主と家臣となってからも変わりません。現存している書状にも長野主膳を「先生」と呼称しています。




しかし、この頃は直弼に主膳を雇うような甲斐性はなく、また、長野主膳もまた生活の糧を稼がなければなりません。長野主膳から教授を受ける門弟の中に京の二条家のお抱え豪商がおり、そのツテで京へと昇り、二条家(九条家ではない)に仕えます。この時妻もまた公卿今城家に仕えています。




一介の浪人に過ぎない長野主膳が京の公家に出入りをする。




中々に信じ難い事ではあるのですが、前述の通り長野主膳には国学者としての確かな素養と人の師たる風格があったようです。ここで、京の公家の家人たちと親交を結び、後に井伊大老唯一の頼れる公卿九条家の家人島田左近とも昵懇になります。




これはただの偶然ではありますが・・・。




この「京都人脈」が後に長野主膳を「京の大老」と言わしめる力を与え、同じく朝廷工作に奔走する橋本左内や西郷吉之助の前に立ち塞がります。

長野主膳の前半生

長野主膳の前半生が不確かな部分が多いのは間違いありません。元々、長野主膳自身が「出自を語りたがらなかった」事もありますが、加えて、「桜田門外の変」以降、彦根藩の方針も変わり維新成った事影響も大きいと思います。




「維新志士」からすれば長野主膳と井伊直弼は憎い仇です。その事績を積極的に調べようとする者も少なく(藩主直弼はともかく)、ただでさえ少ない資料も破却されています。




ただ、長野主膳がそれなりの家柄であった事は間違いないと思われます。
理由は簡単。



「国学の素養」



当時は「学ぶ」というのは大変な労力を伴うものです。現代のように「ネットで調べて自ら学ぶ」といった事は出来ません。(余談ですが、現在は乱世です。その経歴からは想像できない程の教養をもつ人も多い)




それなりの「家」でなければ学ぶ事さえできません。実際、京都人脈から「公家出身」あるいは国学の素養(紀州は国学が盛ん)から「紀州藩出身」という説等もありますが、有力なのは「肥後阿蘇家」のあたり出というところのようです。




阿蘇氏は長野氏と同じ始祖を持つ一族があること、また、たまに肥後訛りが出たこと、さらに第86代阿蘇大宮司の阿蘇惟治(1808年-1877年)と、かなり親し気に和歌のやり取りなどをしています。




※参考文献:安政の大獄 井伊直弼と長野主膳(中公文庫)等

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長野主膳の「活躍」

井伊直弼が家督を継いだ後に藩校・弘道館国学方に取り立てられ直弼の藩政改革に協力します。ただ、この頃は直弼と「師弟の関係」にあるという部分では特別(当然師は主膳で弟子が直弼)ではありますが、
外部から招聘された「助っ人」に過ぎません。




長野主膳は「国学者」としては優れており、その経歴から一廉の人物ではありますが、そこは譜代筆頭の井伊家です。優れた人物は他にもおります。




主膳の活躍は直弼が大老に就任した後、「朝廷工作」が幕府の重要課題となった事に端を発します。

生きる京都人脈

徳川幕府が成立してからこの方「政(まつりごと)」は幕府の専管事項でした。日本側に大きな被害をもたらした文化露寇であってもそれは「事後報告」であり、朝廷に相談をする、ましてや「勅許を求める」等という事例はかつてありません。




日本を震撼させた「日米和親条約」締結でさえ、幕府は独断で条約を締結し、そして朝廷側もそれを別段問題視はしていません。



「政(まつりごと)は幕府に委任する」



それが、元和偃武以来のこの幕藩体制の在り方でした。




しかし、そのペリー来航後になると、幕府は朝廷を政(まつりごと)に「巻き込み」ます。これは、ある意味では幕府の「自信の喪失」と言えるかもしれません。




また、幕府だけではなく諸大名においても「朝廷の権威」を利用しようと様々な工作を行います。幕府にとって最初の難関は「日米修好通商条約」の勅許の問題でした。
(乗客勅許の問題の開始は井伊直弼が大老に就任する前の出来事)




しかし、井伊家には朝廷工作を担当できるような者はおりません。いや、井伊家に限らず、薩摩藩のような一部の大名以外は朝廷へのツテ等は持っていません。




そこで活躍の機会を得たのが長野主膳でした。大老に就任した井伊直弼にとっては朝廷との連携が不可欠の事であり、また、時の関白九条家の家人と面識のある長野主膳の存在は井伊家にとっては渡りに船です。




長野主膳も自分の力を藩内に示す(直弼の信頼は厚いが出自が彦根藩ではない長野主膳は藩内での立場は必ずも盤石ではない)良い機会です。ところが、此処で大きな蹉跌があります。所謂「水戸密勅事件」です。御上の内勅が幕府ではなく、御三家とは言え水戸藩にもたらされるなどと言うのは前代未聞の事です。




内勅の内容自体はそれほど大した内容ではない(諸藩でよく議論して事に当たるようにといった趣旨)それを察知できなかった長野主膳は衝撃を受け、より過激に対応をしたと言われます。




長野主膳は水戸密勅を阻止できない程に朝廷内では少数派となってしまった親幕派の関白九条尚忠を後押しするために、反幕府派であった近衛家(薩摩藩と昵懇)等の家人を安政の大獄で捕縛し圧力を加えます。
(流石に公卿には手を出せないのでその家人や関係者を捕縛)




当時、公卿といえども禄高は少なく、多数の家人を抱えていた訳ではありません。数少ない家人や関係者(近衛家であれば成就院月照)の捕縛は大きな圧力となります。




結果、長野主膳は「京の大老」と綽名されるほどの活躍そして、尊王派の志士からは憎しみを買う事になります。

長野主膳の最期と井伊家のその後の皮肉

井伊大老の時代は長くは続きませんでした。世に言う「桜田門外の変」で主君井伊直弼は横死してしまいます。実働期間は安政5年(1858年)~安政7年(1860年)と2年程です。




ただ、長野主膳はその後暫くは彦根藩を継承した直憲(直弼の子)と折り合いが悪く、また、彦根藩家老の岡本半介に直弼時代の厚遇を敵視されるなど彦根藩内での立場は揺らぎます。




元々、前藩主の井伊直弼による一本釣り的に登用されていた事もあり、藩内での政治的な基盤は脆弱であったことや、所謂「文久の改革」で井伊家の罪が問われると、藩論も「尊王」に傾き、共に直弼を支えた家老宇津木景福と共に粛清されます。




ただ、皮肉な事にこの「文久の改革」の結果、彦根藩は35万石から25万石に減封となり幕府との関係が悪化、さらに、元々「彦根に根を持たない」長野主膳を主犯とした事でその後、諸藩で見られたような「尊王派と佐幕派の血みどろの粛清合戦」もなく、戊辰戦争時にはいち早く「新政府軍」に加わる事になります。




安政の大獄の首謀者であった井伊直弼は既に亡く、その「罪」を外部から招聘された「長野主膳」が丸かぶりをしてくれた影響でもあると思います。




ある意味では長野主膳の存在が彦根藩の命脈を最後の最後で保たせたのではないでしょうか。




最後に、井伊直弼の後を継いだ直憲は後に伯爵に叙任されています。以上、長野主膳とは?謎の多い前半生と京都人脈の理由でございます。

今宵は此処までに致します。

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