お由羅騒動(高崎崩れ)について。世に有名な事件であり、西郷・大久保には多大な影響を与えます。「お家騒動」事態は何処の家でもあるのですが、薩摩のそれは度を越している・・・。その「理由」とお由羅騒動以上の犠牲者を出したお由羅騒動の原点とも言える「近思録崩れ」とは?

お由羅騒動前史~蘭癖と継嗣~

まずはお由羅騒動に至る前について。その萌芽は既に、斉彬の曾祖父である島津重豪の時代に始まったと言えます。死に際を見誤るという事はよくあるという事でしょうか。

島津重豪、その活力

島津重豪(しまづしげひで)は薩摩藩第8代の藩主です。この人物は所謂「蘭癖大名」としても良く知られています。ただ、注目すべきは「蘭癖」だけではなく「長命」であった事でしょう。



※重豪以降の歴代薩摩藩主



元々、薩摩藩は成立当初から厳しい財政状況と言われます。関ヶ原で西軍に属し(情状酌量の余地は多分にあるとはいえ)ながも島津家の石高は据え置きでした。徳川幕府が薩摩を警戒したためとも言われます。しかし、太平の時代になってからは有力藩に対しての弱体化政策、所謂「参勤交代(薩摩は遠い・・・)」そして、大規模な天下普請(木曽三川改修工事など)、でただでさえ稲作に適さない薩摩藩の財政は苦しくなる一方でした。




そこに輪をかけて財政を悪化させたのがこの島津重豪の藩校「造士館」や「明時館」設立や「蘭癖」。海外の文物を好みは洋書の購入など兎に角金を使います。重豪はシーボルトとも会見していますが「重豪は蘭語が話せた」と伝わります。




さらに、さらに!
重豪は自分の娘を将軍家(徳川家斉正室:広大院)に嫁がせるなど「政略結婚」にも積極的です。ただ、大藩とは言え外様大名が将軍家に御代を送り込むにはそれ相応の金がかかります。また、「結婚後」の「交際費」も馬鹿になりません。




結果500万両という途方もない借金をこしらえます。
(貨幣価値が異なるので一概には言えませんが一般的には1兆円は軽く超える借金)




因みに、これは利息だけでも薩摩藩の年収(15万両程度)を超えており実質的に破綻状態でした。




また、一時期重豪の後を継いだ斉宣(重豪の子で業興の父)は財政再建を図りますが、後程触れる「近思録崩れ」で頓挫しています。




重豪は前述の通り長命であり「元気」でもありました。後に、「お由羅騒動」で斉彬に力を貸してくれる福岡藩藩主黒田長溥は69歳の時の息子です。酒も異常に強く、重豪の相手は誰も出来なかったと言われます。




薩摩藩の少なくはない藩士が「蘭癖」を快くは思わない、いや国を滅ぼすと考えていてもまったくおかしくはない状況でした。

お由羅騒動(高崎崩れ)へ

重豪は天明7年(1787年)に息子の斉宣に家督を譲りますが、「近思録崩れ」で斉興が後を継いだ後も実権を握り続けます。そして、誕生したのが斉彬です。斉彬にとっては曾祖父ですがシーボルトに一緒に会うなどこの曾孫の斉彬を大変可愛がります業興はきっと「嫌な」予感がしていたと思いますね。

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調所広郷の改革と重豪の死

斉彬は文化9年(1820年)8月に薩摩藩世嗣となります。頃の頃は未だ重豪は元気なころですね。




この頃、意外にも「重豪」に才覚を見出されて城下士(西郷などと同じ)から後に家老になったのが調所広郷。そして、重豪が亡くなる前年には家老格となり、「不可能」と思われた財政再建と蓄財を達成します。




放蕩親父(重豪)が亡くなり、借金返済と貯蓄が出来た。




斉興、いや薩摩藩の少なくない藩士は「安心」したと思います。
しかし、心配の種が。



「曾祖父重豪の血を色濃く受継いでいる斉彬」



斉彬の父斉興は出来れば、廃嫡をと考えたと言われます。しかし、幸い?将軍お目見えをすましている斉彬を今更廃嫡は出来ません。そこで、兎に角藩主に居座り続ける事になります。当時世継ぎが成人したら家督を譲り隠居するのが一般的です。また、その間にお由羅派は「斉彬の調伏」を行います。藩主が存命中に世継ぎが亡くなれば必然的に久光にお鉢が回るというわけです。




調伏などは「迷信」と侮るなかれ。当時は江戸時代ですからね。また、一説には斉彬毒殺を試みたとも言われます。
(斉彬の子は5人夭折しているのですが、こちらも毒殺を疑う向きがあります)




しかし、斉彬もまた、藩主を継ぐために危険な賭けに出ます。薩摩藩は密貿易を行っている(幕府の半ば公認の元)のですが、それをネタにまずは、番頭役の調所広郷を恫喝します。しかし、調所広郷も一角の人物。責任を自分だけに留めて自害します。これが斉興の逆鱗に触れます。




所謂「お由羅騒動(高橋崩れ)」の始まりです。




斉彬派の船奉行・高崎五郎右衛門などが「お由羅暗殺の謀議」の疑いで即日切腹。お由羅騒動の別名「高崎崩れ」はここからきています。




そして、西郷達が「先生」と慕う赤山靱負など13名の切腹、そして大久保の父の島流しなど斉彬派は50名が処罰を受けます。お家騒動は別段薩摩の専売特許ではありませんが、その処分の苛烈さ他の追随を許しません。

お由羅騒動、その苛烈さの理由

薩摩藩は「武」を尊びます。関ヶ原から250年の幕末にありながら、「関ヶ原」をまるで昨日のように感じる事が出来る。それは「侍階級」が藩の1/4を占める(通常は7~10%程度)と言う事実からも伺えますがそれ以上に注目したい事があります。薩摩は「尚武」の国なのです。

日本で二番目に切腹が多いのは?

切腹。
日本人なら誰しも知っているこの「切腹」。




その歴史は古く平安時代に端を発すると言われますが、室町時代までは必ずしも我々が知っている「切腹」とは異なる(自死ではあるが方法は一定ではない)方法も多かった。




ある意味で「切腹」が一般化した最大の催しは「備中高松城」でしょう。当時、中国征伐に赴いていた羽柴秀吉と毛利家との激しい戦い。備中高松城の城主清水宗治は城兵の助命と和睦の引きかえに7万とも言われる羽柴軍・毛利軍の将兵に見守られ腹を切っています。以降、「切腹=名誉」といった認識が広がったと思われます。




当時は「TV中継」「動画配信」などはありませんから、7万近い兵が「見た」というのは凄まじい反響です。彼等は「兵」ですからあちこちに移動します。そして、行く先々で「清水宗治は立派に腹を切った」と語った事でしょう。




しかし、戦国も終わり江戸時代になると少々趣きが異なります。この時代は主君が亡くなると、後追いの自刃も多くそれを防ぐため、まず、「勝手な切腹」は罪となるようになります。




まあ、そもそも太平の世になったのですから物騒な「切腹」は過去の伝説になりつつあったと思います。




しかし、そこに久々に「武士」を感じさせる事件が起きます。
世に名高い忠臣蔵ですね。




四十七士は見事吉良上野介を討取り本懐を遂げた後元禄16年(1703年)2月4日に切腹しています。




この赤穂藩の48人(赤穂浪士と浅野内匠頭で48人)は2番目に切腹が多い藩なのです。




え?赤穂藩が2番?では一位は?




断トツのダブルスコアで薩摩藩なのです。

苛烈!薩摩義士!!宝暦治水事件

少々時計の針を戻します。時は重豪が家督を継いだころ。前述の通り、幕府は薩摩を警戒しています。太平の世となってからも「天下普請(つまり今で言えば公共事業)」を請け負わせその力を漸減させようとします。




そして、その最たるものが宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)に行われた、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業です。これは当然「治水」の意味もありますが、薩摩に出血を強いる目的もあったと言われます。幕府指揮の元で薩摩が工事をするのですが、ただでさえ難しい工事であるにも関わらず度々幕府方の悪質な嫌がらせが多発。




工期はどんどん伸び、事故での犠牲者も多発します。薩摩の借金は重豪が爆増させる前、この時期に一度膨れ上がっています。




この工事の期間中に薩摩藩士51名が自刃しています。多くは、幕府のやり方への抗議の自刃です。工事終了後には薩摩藩の総指揮官であった平田靱負も抗議の自刃。これで、赤穂義士の切腹を追い抜いています。

プレお由羅騒動!?近思録崩れ

宝暦治水で莫大な借金を作った島津家。島津重豪はまだ幼年ではありましたが藩主でした。思うところはあったのではないかなと思います。




後に、将軍家との政略結婚を進めた背景には「幕府と昵懇になる」という目的もあったのではと思います。




しかし、ただでさえ「宝暦治水」で借金が嵩んだ上に「蘭癖」と「接待費」の増大で財政は破綻。ただ、重豪が隠居後に後を継いだ島津斉宣は文化2年(1804年)に「鶴亀問答(つまり質素倹約路線)」という文書を配り緊縮財政に舵を切ります。




これは、藩主斉宣ご隠居の重豪の権力争いでもあります。




結果的に斉宣は敗北。理由は色々とあるのですが、斉宣は自分の子飼である秩父季保を中心とする近思党は自党ばかりを優遇し、旧重豪派から多大な恨みを買った事も大きいと思います。
※近思録とは朱子学の書。秩父達はその勉強会で同志を募っていた。




この事件では切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名。切腹の数は「お由羅騒動」と同じですが、遠島など処分者はお由羅騒動よりも多いのです。

お由羅騒動始末

この異常な切腹は薩摩藩の「苛烈な風土」でしょう。意に沿わない、正義ではないと思えば進んで腹を切るし、切らせる。薩摩では抜刀した場合には相手を殺す事は勿論、その上で自分も腹を切る、また、「稚児」が抜刀し誰かを傷つけた場合にはその郷中の二才で年上の者は切腹など、とても「太平の世」とは思えない掟が面々と継承されています。

異常な切腹がもたらしたもの

しかし、最終的にはこの「苛烈な処分」が斉興を始めとするお由羅派には裏目に出ます。



「この太平の世にいったい薩摩では何が起きている?」



江戸初期以降、むやみな切腹は禁忌とされる傾向が強くなりました。宝暦治水事件では抗議切腹が多発したものの、これは表立っては幕府に報告されず隠されました。幕府への抗議とは、つまり「謀反の疑い」がかけられる可能性があったからです。




藩内での争いを咎められた斉興は「茶器」と「正三位」を引きかえに隠居の運びとなります。



斉彬は家督を継いだ後、お由羅派への処分を行っていません。また、斉彬派として処分された人間も許しはしましたが、斉興達を刺激しないようにゆっくりとやります。




そこには「薩摩の苛烈さ」を骨身にしみている斉彬が、その宿痾を断ち切りたかったからではないかと思います。




最後に、お由羅について。




お由羅もまた特別処分もないまま過ごし、斉彬病没の後、愛する久光の子が家督を継いだのを見定めてから病没しています。




我が子を溺愛し、その子が藩主となならずも藩主の父、藩主の後見人となる。ある意味では幸せな一生を送ったのかなと思います。




以上、お由羅騒動の原点は「近思録崩れ」にあり。苛烈な薩摩の風土がもたらした悲劇について。

今宵は此処までに致します。

→西郷どんと翔ぶが如くのキャスト表(随時更新)