西郷隆盛と横山安武の関係について。西郷横山安武に大きな期待をしていた。その事は後に西郷が横山の葬儀の幟や後に建立された横山安武の碑文に筆を取っている事からも分かります。西郷隆盛横山安武「時弊十ヶ条」の諫言について。

横山安武の来歴

横山安武は天保14年(1843年)に薩摩藩士森有恕の四男として鹿児島城下の城ヶ谷で誕生。世代的には西郷の弟である従道(同じ天保14年5月)と同じですね。西郷からすれば「弟」のような存在だったのではないでしょうか。

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誕生から維新まで

「大獄の嵐」が吹き荒れる直前、まだ斉彬治世下の安政4年(1857年)藩に仕えていた横山安容の養子となり家督を継承すると島津久光の小姓として出仕します。横山安武は幼少の頃からその俊才振りは良く知られており薩摩藩校である造士館を首席で卒業しています。




余談ですが横山安武の弟には初代文部大臣や一橋大学の創設者「明治六大教育家(新島襄等)」としても良く知られる森有礼がいます。




森家には嫡男有秀がいましたが禁門の変で討死。また、次男・三男、そして横山安武自身も養子となっており結果的に末子の有礼が森家を継承しています。




斉彬亡き後久光が所謂「国父」となり、久光の嫡男忠義が藩主となってからも久光に仕えその信任を得ます。維新後、久光の五男忠経の守役となると忠経に藩外での遊学を勧め、共に佐賀藩の弘道館、次いで山口藩の明倫館で学んでいます。

辞任と東京遊学

維新後、横山安武が山口藩滞在中の明治3年(1870年)1月、兵制改革に反発する奇兵隊の一部藩士が暴動を起こします。




この奇兵隊の反乱の詳細は省きますが、簡単言えば「戦うべき相手」がいない以上は兵士は少なくて大丈夫です。軍隊のスリム化を図るに辺り「論功行賞」を何もせずに軍役を解いた事が主な原因です。これは、山口(長州藩)だけではなく新政府として頭の痛い問題であり、後の「廃藩置県」断行には「十分な軍備」が必要である事を再認識さる事になります。




横山安武はこの山口藩の混乱を報告するため「単身」薩摩へ戻ります。この事で横山安武は久光の不興を買う事になり、守役から退きます。




その後、陽明学を学ぶために入京し、当時著明な陽明学者であった春日潜庵(後の諌死時の春日某とはこの潜庵の事)を尋ねますが謹慎中の為果たせず、東京へ出でて同じく陽明学者の田口文蔵の門弟となります。




この「東京行き」が横山安武の運命を大きく変える事になります。

西郷の衝撃!横山安武諌死す

西郷は戊辰戦争の終結を待たずに全ての官職を辞し鹿児島へ戻ります。西郷自身は「軍役」こそが自分の役割であり、そのカタがついた事で自分の役割は終わったと考えていたようです。しかし、横山安武は東京で「腐った政府」を目の当たりにする事になります。

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政府の腐敗と世情不安

明治維新が成ったのは勿論、黒船来航に代表される、世界史的な「欧米列強の世界政策」の渦があった事は間違いありませんが、内政的見れば民の暮らしが限界を迎えていたという事も大きいと思います。




幕末の一揆の件数は300件以上と飢饉により一揆が多発した天明、天保と比較してもさらに多い。




ご維新が成り、明治に入ってからも米の値段は下がらず民の暮らしは苦しいまま。一揆は相変わらず諸国で多発し大規模化しつつありました。




一方で、「新政府」のお歴々はすっかり「大名気分」で旧旗本や大名の屋敷を接収し、自らの財産を増やすことに勤しみ、妾を囲い私利私欲に走る始末。




地方の、民百姓の生活苦を良く知る横山安武としては耐え難い現実であったと思います。




また、当時盛んになりつつあった「征韓論」にも唖然としています。征韓論は後に「征韓論政変(明治六年政変)」もあり西郷の発案のように思われがちですが、維新後、すぐに朝鮮国との関係は悪化しています。
西郷の主張も「征韓論」ではなく話合いをすべきという「遣韓論」です。この辺りの事情は翔ぶが如くに詳しいですね。




幕府から明治政府に日本の政体は変わりましたが、その事が朝鮮国の不信(外交文書が江戸幕府方式から変わった事など)を招きます。また、朝鮮国はその頃「シャーマン号事件(1866年)」での焼き討ちに成功するなど強気であったこと、明治政府も維新成ったばかりで「強気」だった事も影響しています。




横山安武から言わせれば、民百姓が生活に苦しいのに「侮られたから戦争」とはもはや正気の沙汰とは思えなかった。

横山安武の諌死と「時弊十ヵ条」

明治3年(1870年)7月27日。




横山安武は集議院前に羽織袴の正装で現れると、



「これからここを汚すが、どうか勘弁して欲しい」



と、集議院門番に話し掛け頭を下げると見事に腹召します。
(集議院は明治政府の立法府だが「衆議院」とは異なり最高機関ではない。明治6年6月廃止)




門前には竹竿に二通の書状が挟まれ立てかけられていました。その内容はまさに多くの心ある民が考えている「時弊」が痛烈に記載されています。



  • 第一、 輔相の大任を始め、侈靡驕奢、上、朝廷を暗誘し、下、飢餓を察せざるなり。
  • 第二、 大小官員ども、外には虚飾を張り、内には名利を事とする、少なからず。
  • 第三、 朝令夕替、萬民孤疑を抱き方向に迷ふ。畢竟牽強付会、心を着実に用いざる故也。
  • 第四、 道中人馬賃銭を増し、五分の一の献金等、すべて人情事実を察せず、人心の帰不帰に拘わらず、刻薄の所置なり。
  • 第五、 直を尊ばずして、能者を尊び、廉恥上に立たざるが故に日に軽薄也。
  • 第六、 官のために人を求むるに非ずして、人のために官を求む。故に毎局、己が任に心を尽さず、職事を賃取仕事の様に心得る者あり。
  • 第七、 酒食の交り勝ちて、義理上の交り薄し。
  • 第八、 外国人に対し、約定の立方軽率なるより、物議沸騰を生ずること多し。
  • 第九、 黜陟の大典立たず、多くは愛憎を以て進退す。春日某の如き、廉直の者は、反つて私恨を以て冤罪に陥る数度なり。これ岩倉、徳大寺の意中に出ずと聞く。
  • 第十、 上下交々利を征(と)りて国危うし。今日在朝の君子、公平正大の実これありたく存じ奉り候。


簡単に訳せば、贅沢三昧、虚飾に勤しみ功名心ばかり、指示命令は朝令暮改、通行料は民の実態を考えず高額、人格ではなくて能力のみ(だから不正がはびこる)に偏重、適材適所ではなく人情で「人の為に」仕事を作っている、諸外国との約定をその場のノリでよく考えないで結ぶ、岩倉や徳大寺の情実人事、上も下も己の欲得ばかり・・・。



と、いった感じでしょうか。



もう一通の別紙には、



「征韓論」



について痛烈な批判が加えられていました。



「ただでさえ国内が疲弊しているときに、征韓などできるはずがない」

「朝鮮国に侮られたから兵を動かすというがそんな事で兵を動かすとは如何なものなのか?」



といった趣旨です。明治政府の中には「幕府を倒した」事で調子に乗り豊臣秀吉よろしく、朝鮮征伐を声高に叫ぶ人間がいるが、





「豊臣秀吉の威力を以ても数年かかっている」



のに、今の明治政府にそのような事が出来るのかといった事も記載されていました。

横山安武の死と政府の動揺

横山安武は遺書を残しており、薩藩の「藩政」に西郷が就任する事で、



「何もいう事はなくなった」



と、記載されており、薩摩の行末に安堵したからこその諌死とも考えられると思います。
西郷はその死と、



「時弊十ヵ条」



を知り、横山安武の諌死を大変悲しみます。




この横山安武という若者(享年28歳)死をもっても新政府の悪癖はまったく改善されないどころかむしろ悪化の一途を辿ります。しかし、一方でこの「時弊十ヶ条」が「耳の痛い諫言」である事は政府も理解できました




また、諌死したのが薩摩藩士であり久光の有力な近臣でもあった横山安武である事は政府を動揺させます。折しも、多発する一揆、そして「士族の不満」に新政府は神経を尖らせていました。




この事態に政府は異例の措置を講じます。




横山安武の遺族の「葬祭料」として太政官から島津忠義に祭祀料100円が下賜されます。




100円というとどれくらいの金額か?正確に当時の貨幣価値を算出するのは中々難しいのですが、明治最初期の「給与所得者」の年収が160円程度と言われているので家族が1年近くは暮らしていける程度の金額なのではないでしょうか。




必ずしも幕末の京や戊辰戦争での際立った活躍があった訳ではない横山安武、しかも政府を非難しての自死に対しての処遇としては異例と言えます。

西郷、横山安武に筆を取る

西郷は横山安武の諌死を悲しむだけではなく政府にも怒りを滲ませます。




実は「葬祭費」が下賜されるに辺り、太政官から発給された文書には横山安武の活躍を称えると同時に、



「時節を見誤り」



と、いう言葉が記載されていました。西郷はこれを知ると怒り、



「横山安武は時節を見誤ってなどいない」
(寧ろ、時節・新政府の問題点を正確に捕らえている)



と、突き返させています。




さらに、葬儀に当たっては自ら筆を取り、葬列の先頭に掲げる幟(のぼり)に、



「精神、日を貫いて華夷に見われ、気節、霜を凌いで天地知る」



と、書いています。




さらに後の明治5年(1872年)8月には横山安武のため碑文にも自ら筆を取って弔っています。かなり長いですが下記に引用を置いておきます。因みに、西郷がこうした個人を悼む碑文に自ら筆を取っているのは横山安武の他に一例しかないそうです。



横山安武稱ス二正太郎ト一。

森有恕之四子。

母ハ隈崎氏。

出デテ繼グ二横山安容之後ヲ一。

爲リレ人ト忠實ニ而泛ク愛シレ衆ヲ。

事ヘテレ親ニ盡ス二色養ヲ一。

至テハ二于事フルニ一レ君ニ。

則チ犯シテレ顏ヲ言フ下人ノ不ルレ能ハ二敢テ言フ一者ヲ上。

皆發ス二忠愛之心ニ一矣。

安武在ルコト二君側ニ一十餘年。

排シ二因習ヲ一。革ム二舊弊ヲ一。

且ツ欲シレ使メント二宮中府中ヲシテ一體タラ一。

論辯不レ止マ。其ノ言一時能ク行ハレ。

而テ下情上達シ。

宮府無キ二間隔一者。

安武之功居ルレ多キニ焉。

癸亥年英艦來テ戰フ二於鹿兒島港一。

人家數百罹ル二兵燹ニ一。

安武之家モ亦逢フ二其ノ災ニ一。

邦君毎ニレ戸賜ウテレ金ヲ以救フ二其ノ急ヲ一。

安武以テ二多年勤勞之功ヲ一。

特ニ蒙ル二賞賜ヲ一。

安武恤ヘ二故人貧困ナル者ヲ一。

乘ジレ夜ニ。

以テ二賜金ヲ一竊ニ投ジテ二於其ノ家ニ一而出ヅ。

家人不レ知ラ二其ノ故ヲ一。

踊躍シテ以テ爲ス二天神之冥助ト一也。

安武ノ死後。

親戚檢シ二其ノ日記ヲ一。

始テ知ル二安武ノ所ヲ一レ爲ス。

嗚呼爲ニレ利ノ不レ謀ラ。

爲ニレ名ノ不レ設ケ。

皆發シテ二於至誠ニ一而然ル也。

安武任ゼラル二近侍ニ一。

專ラ補二導シ公子ヲ一。

孜孜不レ怠ラ。

以爲ラク公子成二長シ於深宮ニ一。

疎シト二下情ニ一。

切ニ勸メ二遊學ヲ一。

而自ラ隨行シテ至ル二長州ニ一焉。

有リレ故召シ二公子ヲ一還ス。

安武亦從テ而歸レバ。

則チ被レ奪ハ二其ノ職ヲ一。

於テレ是ニ自反シテ曰ク。

當ニ三益勵マシテレ志ヲ以テ修ム二徳業ヲ一耳ト。

再ビ請ヒ二遊學ヲ一。

始メ到ル二西京ニ一。

去テ又至ル二東京ニ一。

當テ二此ノ時ニ一朝廷ノ百官遊蕩驕奢。

而誤ルレ事ヲ者多シ。

時論囂囂タリ。

安武乃チ慨然トシテ自ラ奮テ謂フ。

王家衰頽之機兆ス二于此ニ一矣。

爲ル二臣子一者。

不レ可ラレ不ル二千思萬慮以テ救ハ一レ之ヲ。

然シテ而雖二尋常諫疏百口陳ズト一レ之ヲ。

力不バレ能ハ二矯正スル一。

則チ無キ二寸益一而已。

不レ如カ二一死以テ諫メンニ一レ之ヲ。

若シ有バレ所二感悟スル一。

豈無ラン二小補一乎ト。

乃チ作リ二諫書ヲ一。

陳ジ二弊事十條ヲ一。

持シテ至リ二集議院ニ一。

插ミ二之ヲ門扉ニ一。

退テ屠二腹ス津輕邸ノ門前ニ一。

實ニ明治三年庚午七月廿六日夜也。

拂曉門吏開クレ門ヲ。

則チ有リ二僵臥スル者一。

以テ爲シ二薩人ト一也。

驚キ走テ告グ二諸ヲ薩邸ニ一。

邸吏到レバ則チ安武也。

扶ケ起シテ入ルレ邸ニ。

氣息未ダレ絶エ。

曰ク奉ズト二書ヲ集議院ニ一。

語僅ニ通ズ。

乃チ遣リレ人ヲ問フ二之ヲ於院ニ一。

答テ曰ク。

今朝院門ニ有リ二封書一。

取テ而上ルト二于政府ニ一。

走リ歸テ具サニ以テ二其ノ状ヲ一告グ二安武ニ一。

安武怡然トシテ瞑目ス矣。

於テレ是ニ世人感ジ二安武之死諫ニ一。

空論忽チ止ミ。

時弊亦以テレ漸ヲ而改マル。

安武以テ二忠實之資ヲ一。

未ダレ能ハ二大ニ有ル一レ爲ス。

而徒ニ爲ル二史鰌之尸ト一也。噫。



西郷隆盛は横山安武の死の翌年、再び政治の表舞台に復帰します。西郷の「遣韓論」などはまさに横山安武の「征韓論について」に近く、いかに横山安武が西郷を慕い、その考え方を理解していたかという事が伝わって来ます。。



ただ、一方で横山安武と同じく、いや、それ以上の悲劇の道を歩事に・・・。



以上、横山安武と西郷の関係!時弊十ヶ条の内容とは?
大河姫

でございます。



今宵は此処までに致します。

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