おゆうについて。大久保利通の妻というと薩摩の苦しい時代を支えた妻満寿が良く知られています。しかし、大久保利通にはもう一人の妻(妾)がおりました。その女性こそおゆう。京での活動を物心両面で支えた大久保利通のもう一人の妻おゆうと「錦の御旗」の関係について。

おゆうとは?実在する?

おゆうは京の祇園で芸妓をしていたと伝わります。芸妓というと「遊女」のようなイメージを持つ方も多いかもしれませんね。また、大河ドラマ西郷どんで慶喜に身請けされた「ふき(お芳)」のように、貧しいがために売られたといった印象もあるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。
(まあ、ふきのモデルお芳は決して「貧しく」はないんですけど・・・!)

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おゆうは一力亭の芸妓

おゆうは京都祇園のお茶屋一力亭の9代目主人の娘(養女?)と言われています。江戸時代は「お茶屋」というと「色々な意味」があり、場所によっては「置屋(遊女遊びが出来る)」を指す事もありますが、一力亭は祇園の中でも最も格式高い「お茶屋」です。




基本的には芸妓が芸を披露し、諸藩の有力者・有力商人等が「密談」をする場所を提供する、現代で言えば「料亭」のようなイメージが近いと思います。




因みに、この「一力亭」は寛延元年(1748年)に初演された「仮名手本忠臣蔵」の舞台にもなっています。





一力亭は元々は「万亭」という屋号だったのですが、この「仮名手本忠臣蔵」の爆発的なヒットにより実際の名前よりも、劇中での「一力亭」の方が有名になり、そのまま「一力亭」と呼ばれるようになります。
(「万」は「一」と「力」で出来ているからかな?因みに、一力亭は現在も営業中)




おゆうはその老舗「一力亭」の娘と言われていますから決して「貧しい」という事はなかったでしょうね。むしろ、京で最も由緒ある「茶屋の娘」として一流の芸を仕込まれ、一流の諸藩の武士とも渡り合える「教養と機転」を身に付けていたと思われます。金欠気味の薩摩藩士(薩摩藩自体は金満藩ですが・・・)よりも随分と豊だったのではないかと思います。



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おゆうは京で大久保利通を支える

さて、大久保が初めて京へ上ったのは文久年間。時は幕末であり、大久保は朝廷工作や諸藩の藩士との密談を繰り返していた事でしょう。




時代が変わっても「政治」に必要なのは「情報の秘匿」ですね。幕末の京都は尊王攘夷・佐幕開国と朝廷や雄藩、幕府の思惑が入り乱れています。そして、情報の漏洩は「謀の失敗」だけではなく命を失う事にもつながります。




そこで、大事なのは「秘密が漏れない会談場所」ですね。




前述の通り「一力亭」は待合茶屋、今で言う料亭のような役割を担っています。




大久保としても安心して「密談」が出来る場所は是が非でも欲しい。格式が高く「一見さんお断り」の茶屋であれば安心感が違います。




また、大久保は昔から「胃腸が弱く」度々腹を下しています。




因みに、「薩長同盟」が成立した時も大久保は腹を下しており、その時もおゆうの元で養生をしていたと伝わります。




大久保の京での活動はおゆうの「内助の功」があってこそですね。

おゆうと錦の御旗

戊辰戦争の勝敗を決したと言っても決して過言ではない錦の御旗。おゆうと「錦の御旗」にはちょっとした関わりがあります。




薩長、そしてそれに同心する岩倉は「倒幕」の覚悟を決めていますが、慶喜の機先を制する「大政奉還」をしたとはいえ日本の1/4は徳川家の領地であり、また、京・大坂に展開する幕府軍は軽く1万以上。




いかに精強と言えども薩長、それに土佐を併せてもその兵力は幕府軍の半数にも満ちません。



「錦の御旗」



この辺りは流石岩倉様。





ドラマ等では上記のような旗がよく知られていますが、実は当時その図柄や寸法についてはよく分かっていませんでした。




分かっていたのはかつて二回その旗が現れた事があると言う事だけ。



  • 承久の乱
  • 承久3年(1221年)

  • 建武の中興
  • 建武元年(1333年)



ただ、いずれも当時からしても500年以上の昔・・・。そこで、岩倉はある意味では参謀で同志でもあった玉松真弘に「錦の御旗」を図案化させています。




図案化したは良いものの、今度はそれを織らなければなりません。




既に風雲急を告げる状況であり、絶対に幕府方には秘匿しなければならない。気の利いた者が幕府方に居れば同じような事を考える、あるいは奪いに来るかもしれない。




そこでおゆう




おゆうが大久保の妾である事は良く知られていました。おゆうは大久保の客人へのもてなしも行届いたものだったようで(流石は老舗茶屋の娘!)、大久保宛の書状の中にもおゆうのもてなしに感謝している旨が記載された書状が残っているそうです。




大久保は、



「おゆうに帯をプレゼントする!」



という名目で布を集めて織らせたと言われています。

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大久保利通と二人の妻の維新後

大久保とおゆうは慶応2年(1866年)頃には一緒に暮らしていたようです。そして、維新後には二人の間にも子供が産まれています。




満寿との間には、



  • 長男:彦熊
  • (利和)

  • 次男:伸熊
  • (後の牧野伸顕)

  • 三男:三熊
  • (利武)

  • 五男:雄熊
  • 長女:芳子

おゆうとの間には

  • 四男:利夫
  • 六男:駿熊
  • 七男:七熊
  • 八男:利賢


が産まれています。




大久保は本妻の満寿とその子供達は本邸に、おゆうとその子供達は高輪別邸に住まわせていたのですが、幕末薩摩と京を往復したように、本宅と別邸を行き来して、双方が淋しくならないように気を配ったと言います。




満寿とおゆうとの間の子供達はお互いの行き来もあり、関係は良好でした。




しかし。




紀尾井坂の変。

悲劇を乗り越えて

明治11年(1878年)5月14日。




大久保利通は東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷にて石川県士族島田一郎等により暗殺されてしまいます。
享年47歳。




西郷の死からまだ1年も経っていません。大久保の死で維新を牽引した「維新三傑」は皆この世を去る(木戸孝允は西南戦争中に病没)事になります。




そして、本妻の満寿は夫の死後体調を崩し、それからまだその年の年末には亡くなっています。




まだ、幼い子供たちは僅か半年ほどの間に両親を亡くす事になったのです。




おゆうはその後、大久保利通と満寿との間の幼い子供達の事も我が子のように養育します。




大久保利通は悲劇的な最期を迎えてしまいますが、二人の「出来過ぎた妻」を迎え、多くの子供達に恵まれた事は幸いだったのではと感じます。




以上、おゆうとは?大久保利通を支え続けたもう一人の妻と錦の御旗について。

大河姫

今宵は此処までに致します。

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