岩倉具視。維新十傑の1人で「岩倉使節団」の団長や「五百円札」に描かれていた事で良く知られています。岩倉は身分の高い公家の出ではありませんでしたが、その才覚で孝明天皇の信頼を得て幕末の重要人物、そして明治新政府の要職を歴任。そのきっかけとも言える岩倉具視孝明天皇の関係について。

岩倉具視の出自

岩倉具視は男子のなかった岩倉家に婿養子として入っています。実の父は堀河康親。幼名は周丸(かねまる)。周丸少年は幼少の頃から「異彩」を放っていたらしく公家の子女からは敬遠されていました。しかし、師事した伏原宣明は周丸少年を「大器の人物」と見抜き、男子がなく婿養子を探していた岩倉家に紹介。天保9年(1838年)岩倉家の婿養子に。

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岩倉家の家格について

公家というのは「家格」と「官位」で身分が決まります。




上からザックリ、




「摂関家(五摂家)」

「清華家(9家)」

「大臣家(3家)」

「羽林家(約66家)」

「名家(約28家)」

「半家(約26)」




となりますが、所謂「名門」と言えるのは清華家以上でしょうね。我が子晴信の妻三条の方も「清華」の出であります。岩倉家も、また実の父の堀河も共に羽林の家柄であり身分が高いとは言えません。



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さらに、岩倉家が苦しいのは「羽林家」といっても江戸時代に成立した所謂「新家」で歴史も浅い。そうなると官位の累進も「伝統ある羽林家」よりも遅い。おそらく「才覚のある」岩倉具視はその鬱積した不満をため込んでいたのではないかと思います。




しかし、運命は岩倉具視に味方します。




幕末、薩長を始めとした「雄藩」等では旧来の身分に囚われず人材登用がすすみ、能力次第では下級武士であっても「藩の枢要」に参画する人物が出てきます。




その動きは朝廷においても。




岩倉具視は最初の「政治運動」で勝利の手応えを掴むことになります。

廷臣八十八卿列参事件

慶長20年(1615年)5月に大坂夏の陣において豊臣家が滅亡。
この年慶長20年改め元和元年となり、
所謂、



元和偃武
(武器を偃(ふ)せてしまう)


とも称される江戸幕府による統治体制が確立されます。応仁の乱以来、日本全土に長期的に武威を示す事が出来る武家(短命ながら豊臣政権は一時期これを成し遂げますが)は、絶えてありませんでしたが、この「元和偃武」を以て江戸幕府の武威に対抗しうる勢力は消滅し、幕末までの所謂「太平世の世」を実現する事になります。




幕府はその圧倒的な武力を背景に朝廷権力への介入も行います。所謂「禁中並公家諸法度(慶長20年7月、つまり大坂の陣のすぐ後)」ですね。
ただ、




幕府と朝廷の関係が険悪だったか?




というとそんな事はありません。確かに「紫衣事件」のように朝廷と幕府で「緊張・対立」がある事もありましたが、基本的にはそもそも平清盛の武家政権以来「武力」の背景を持たない朝廷としては、圧倒的な「武力」を背景に日本の平和をもたらす幕府への大政委任は決して悪い話ではありません。




実際、「禁中並公家諸法度」には幕府による「朝廷支配」というよりは、幕府の「武力」を背景に「朝廷自身の秩序確立」を助けた一面の方が強いと言えます。



武力


朝廷が幕府に政権を委任したのはその「武力」を信頼したからこそ。しかし、その「圧倒的な武力」に陰りが見え始めます。それは幕末黒船来航のかなり前「文化露寇・フェードン号事件・宝島事件」などを通して朝廷にも不安が募ります。このあたりから朝廷の一部の公家衆の中には「幕府の武力への懐疑」を持つ人も現れます。




彼らは「倒幕」までは企図した訳ではありませんが情報収集や幕政改革の必要性を訴えるようになります。



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水面下ではこうした動きもありましたが、それが一気に火を噴くのが、
幕府側では、



「日米修好通商条約締結の勅許問題」



そして朝廷側では岩倉も参加し下頭角を現す嚆矢ともなった、



「廷臣八十八卿列参事件」



です。




これにはそれぞれ大きな意味があります。




一つは、元和偃武以来「大政委任」をされて来た幕府自身が初めて「動揺」を表に出したこと。もう一つは、朝廷が幕府の政策に対して「拒否」の意思表示をしたことですね。




これまで一部の憂国の壮士や尊王攘夷論者、少壮公家の間で水面下では語られて来た「幕府の権力の動揺」が公然と語られるようになったのです。




岩倉はこの「廷臣八十八卿列参事件」で岩倉は主導的な役割を果たし、さらに、孝明天皇に対して意見書を提出しています。意見書の内容は条約には反対ではあるものの、一方で極端な攘夷は否定し、徳川幕府は諸藩と協力し海防を整えるべきといった後の「公武合体」に通じる内容となっています。




結局、周知の通り老中堀田正睦は条約勅許を得る事は出来ませんでした。



「群臣(岩倉等八十八卿)がその後の影響が測りがたいので今一度御三家・諸大名と協議」



をするようにというのが幕府に対する孝明天皇の返答です。しかし、幕府には「再度協議」するような時間は残されていませんでした。

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岩倉具視、孝明天皇の信頼を得る

幕府による「条約勅許」の求めが前代未聞なら、朝廷による「勅許拒否」も当然前代未聞であり、幕府は予想外の朝廷の反応に苦慮します。個人的には「勅許」など求めた事がそもそも間違いだと思いますが、これは前述の通り幕府の自信の喪失の現れだと思います。




そう、幕府は自信を喪失している。




ここで、朝廷の権威を高める好機!のはずでした。

安政の大獄を生き抜く

大政を委任されているにも関わらず「自信」を失った幕府は「条約勅許」問題で躓く(勅許を得ずに条約締結)という失態を犯し、孝明天皇の怒りを買います。




孝明天皇の気持ちは良く分かります。




勅許を求めてやって来た(今迄幕府が朝廷に何かを相談をしたことなどはない)のですぐはダメです、


もう一度よく検討して下さい


と言ったにも関わらず、条約締結となったワケですからね。なら、最初から「勅許」など求めなければ良い。




幕府がこの時「勅許」を得ようとしたのは諸般の情勢を鑑みれば「条約締結するしかない」と分かっていたものの、その後の影響を鑑みて朝廷もその「共犯者」にしようとした気弱な目論見がありました。まさか、断られるとは思っていなかったのでしょうね。
(事実、九条関白など大政は幕府に委任しているのだから幕府に任せるべきという意見もあった)




このように幕府は自信を喪失していたはずでした。しかし、ここにおおいて幕府の切り札「大老井伊直弼」が登場します。



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井伊直弼があれほどの大ナタを振るえたのには「京の大老」と言われた長野主膳の存在を抜きには語れません。二人は二人三脚で「八十八卿」や所謂「一橋派」の公家を公然と弾圧します。これは岩倉にとっても「衝撃的」な出来事です。




というのはこの頃、勅許を出さなかった孝明天皇は勿論、薩摩藩と共闘し「戊午の密勅」を朝廷側で主導した近衛忠煕、勿論岩倉も「倒幕」等と言う事は一切考えていません。戊午の密勅の内容に関しても決して「倒幕」はおろか「反幕府的」な内容ですらない。それに対して「過剰」とも言える幕府の反応に朝廷は上へ下への大騒ぎとなります。




ここでも岩倉は活躍をします。




そもそも孝明天皇を始め朝廷は(一部のはねっかえりは置いといて)幕府と対立するつもりはありません。岩倉は井伊直弼から新たに京都所司代に命じられた酒井忠義を通じて幕府の枢要、つまりは井伊直弼へと伝えます。




岩倉は下級公家の出でありながら「廷臣八十八卿列参事件」「安政の大獄」を通して朝廷内での存在感を高めて行きます。




この辺り、個人的には大久保一蔵と被る部分がありますね。この二人は島津久光入京時に意気投合する事になります。

和宮降嫁の交渉役に

幕末岩倉の経歴で燦然と輝くのはこの「和宮降嫁」の実現に尽力した事でしょう。和宮降嫁事態は桜田門外の変(安政7年(1860年)3月3日)で井伊直弼が横死の後ではありますが、既にこの話は「大獄の嵐」が吹き荒れていた安政5年(1858年)には長野主膳から宇津木景福(通称六之丞、井伊直弼側近)への書簡に現れています。




井伊大老としても「大獄の嵐」で朝廷を取り敢えず黙らせたものの、朝廷内の不満をこのままにしておく訳にもいかず、また、朝廷側としても、保守派の関白九条尚忠は特に、朝幕関係正常化の切り札として、朝廷と幕府が最も高いレベルで「縁を結ぶ」事に利害の一致を見ます。




正式に「和宮降嫁」が朝幕間の交渉の遡上に上がるのは井伊大老横死から約一月後に、四老中連署で皇妹の家茂への降嫁希望する旨の書状が酒井忠義を通して九条関白に提出された事から始まりますが、元々はこの話は「九条関白」がネタ元と言われています。
(前述の長野から宇津木への書状にはそのように記載がある)




これは九条関白から「幕府側から願い出る」事を要請し、それに幕府が渡りに船と応えたという事だと思います。




ではその実務・交渉は誰が行うのか?九条関白は朝廷内では嫌われ者です。




一方で幕府側は朝廷内に一定の信頼関係(特に九条関白との)を持つ井伊直弼の秘蔵っ子である長野主膳は、既に「京の大老(当然褒め言葉ではない)」などという綽名を貰っているため「和宮降嫁」に関して動けば無用な反発を受ける。



この時幕府側の交渉役になるのが京都所司代の酒井忠義。




では朝廷側は?




岩倉具視です。




安政の大獄の折に、酒井忠義と親交を結び信頼関係を構築していた事が大いに役立ちます。
孝明天皇自体は当初この「和宮降嫁」には難色を示しますが、
岩倉具視は、



  • 公武一和を天下万民に示す
  • 政治決定は朝廷、幕府はその執行という体制を再構築する
  • 破約攘夷を条件とする


と、いう意見書をまとめ孝明天皇を説得します。
幕府としては、「破約攘夷」はとても出来ない相談ではありましたが、井伊大老を喪い、公然と「倒幕」も語られるようになったこの時世を鑑み「7年~10年を目途に」という時間稼ぎを入れ込むのが背一杯でした。

江戸へ

岩倉具視の活躍はさらに続きます。




岩倉は「和宮降嫁」の準備も滞りなく行い、さらにその江戸下向には岩倉自身も孝明天皇の「勅使」として随行します。これは孝明天皇が下級公家である岩倉が幕閣に「舐められないように」という配慮だと言われています。




そして、岩倉はその孝明天皇の期待に違わない活躍を見せます。



「和宮降嫁を利用して孝明帝を退位に追い込もうと企んでいるという江戸市中の噂」



について問い糾します。家茂と和宮に子が出来れば・・・?まあ、あり得ない事ではありますが将軍と天皇家の知を引く事になりますからね。因みに、関ヶ原負け組の薩長や「ひねくれものの水戸藩」や京都付近では「天子様」の人気は高いですが、当然将軍様のお久元のお江戸では公方様が一番エライ!というのが人情という物です。




これには当然、幕府はそのような意図はないと説明しますが岩倉は納得せず、誓紙、将軍家茂の誓紙を要求します。勿論幕府はそのような事は考えていないし、岩倉も現状幕府がそのような事を考えているとは思っていません。



「幕府と朝廷の序列を明確にする」



岩倉の要求に従い前代未聞「将軍家茂の直筆の誓紙」が書かれる事になります。
孝明天皇は、



「勲功の段感悦す」



と、岩倉を直接召し出すとその「意気な働き」の労を労っています。

岩倉具視、時代に追い抜かれる

この後、朝幕関係は一定の安定を見ます。この頃は後に過激攘夷派が牛耳る長州も「長井雅楽」が主導しています。しかし、「桜田門外の変」で時の幕府の事実上の最高幹部を討たれながらなんら行動を起こさなかった幕府の権威は想像以上に落ちていたのです。

文久の改革と岩倉の失脚

この頃、薩摩の島津久光が志半ばで倒れた兄斉彬の意志を継いで「幕政改革」を幕府に迫るべく軍を率いて入京してきます。久光の上洛はあくまで「幕政改革を迫る」ものであり、その点においては一定の成果を上げてはいます。




しかし、井伊大老の横死から世情は一気に変り「倒幕」が公然と語られるようになっていたのです。




久光が上洛してきたのは文久2年(1862年)4月。




久光は無位無官でしかも藩主でも、また藩主の父でもありません。
まあ、言い方は悪いですが・・・。



「何しき来たの?(行くの?)」


と、いう状況です。
しかし、ここで島津久光の元で頭角を現していた大久保一蔵は岩倉具視を通して朝廷の枢要と久光を接触させる事に成功し、幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定させると、久光を「勅使随従」として江戸下向をさせるウルトラCを実現します。これは岩倉自身の発案ではないかと思います。自身が和宮の随行員として江戸下向の際に「勅使」として出向いた事で大いに役に立った事にヒントを得ているように思います。




久光の江戸出府により所謂「文久の改革(一橋慶喜の将軍後見職就任など)」が実施されるのですが、薩軍が江戸から京へ戻った8月、岩倉は失脚の憂き目にあっております。




島津久光にしても、岩倉にしても、そして孝明天皇にしても、基本的な考え方は「幕藩体制の維持」であり必要なのは「幕政改革」であって倒幕ではありません。しかし、この時を前後して長州藩は長井雅楽が失脚し過激攘夷派が藩政を掌握。




そして、その過激攘夷派掌握した長州藩や土佐藩は「薩摩と同じやり方(武力とカネ)」で、朝廷内の過激攘夷派を増やし、増長させて自らの意に沿わない者を容赦なく弾圧していきます。「和宮降嫁」の功績は「幕府へ人質を送った」不忠であり岩倉は奸臣であるとの言説が朝廷内に広がり、ついには孝明天皇からも蟄居謹慎と出家を命じられ表舞台から姿を消す事になります。




少々疑問なのは孝明天皇自身は一貫して「公武合体派」ではあったにも関わらず岩倉追放に反対しなかったのは何故かという事ですね。




これは想像の域を出ませんが、朝廷を「過激攘夷派」が牛耳るようになり孝明天皇としては動きが取れない部分もあったのではないかと思います。実際、長州藩で長井雅楽の失脚に関してもその「航海遠略策」の内容如何というよりも、このまま長井雅楽を藩政の枢要に置いておいては「藩が割れる」という政治的判断が大きかったと言われます。




長井雅楽は失脚の上切腹となりますが、孝明天皇は岩倉具視を守るために追放としたのではないでしょうか。岩倉は慶応3年(1867年)11月までの約5年の間雌伏の時を過ごす事になります。




そして、ようやく京都へ戻る事が出来てすぐ孝明天皇は崩御に遭遇する事になります。このタイミングの問題から岩倉具視には古くから「孝明天皇暗殺」の噂が絶えませんが・・・?




以上、岩倉具視と孝明天皇の関係について。
※参考:「安政の大獄井伊直弼と長野主膳」「翔ぶが如く」等

大河姫

今宵は此処までに致します。

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