龍雲丸が過去を断ち切り「絶対に落ちない城」として築城した「堀川城」。潮が満ちていればまさに「湖上の城」であり、潮が退いていれば「ぬかるみ」で人馬を寄せ付けない。つまり、天然の要害・・・!今回は堀川城とそこで行われた堀川城の戦いと井伊直虎の関係について。

天然の要害堀川城の場所は?

堀川城は遠江国引佐郡(現在の浜松市北区細江町気賀)にあったと伝わる城です。いったいどのような城だったのでしょうか。

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堀川城跡地を見てみる

正確な場所は分かっていない部分もあるのですが、龍雲丸が言っていた通り浜名湖の奥(奥浜名湖)北岸、都田川河口の南側に位置し、満潮時にはまさに「天然の堀」を持つ湖上の城であり、干潮時でもぬかるみで人馬を寄せ付けない天然の要害と伝わります。上記は現在の地図なのですがそれでも浜名湖と都田川が近く、当時の状況を想像できますね。




ちょっと余談ですが、個人的には満潮時の「湖上の要害」よりも、干潮時の「ぬかるみ」の方がやっかいだったと思います。遥か後の時代ですが、独ソ戦の序盤「バルバロッサ作戦」では「冬将軍」がドイツ軍300万のモスクワ侵攻を防いだと言われますが、最初にドイツ軍の侵攻を止めたのは中々訪れない「冬将軍」の所為でぬかるんだロシアの大地でした。ドイツ軍は当初「冬将軍」の到来を心待ち(泥濘が凍るので)にしたと言われます。

堀川城築城の経緯

浜名湖はかつては淡水湖でしたが、1498年(明応7年)に起った大地震で海と繋がりました。そのため、潮の満ち干の影響を受け奥浜名湖周辺には「沼地・湿地帯」が現れるようになります。ちなみに、純粋な湖である「淡水湖」よりも浜名湖や宍道湖(出雲)といったような「海水と淡水」が混じる「汽水湖(汽水域)」は栄養分が豊富で生物が繁栄すると言われます。気賀の繁栄はこの明応地震のお陰かもしれませんね。




さて、ここに城が築城されたのは戦国も後半となった1560年以降と言われます。「おんな城主直虎」でも描かれたいた通り今川義元が存命中今川の勢いは凄まじく遠江は三河と駿河に挟まれ外敵との国境を持たない「内国」でした。




しかし、青天の霹靂「桶狭間」と三河の「ぼんやり(徳川家康)」の裏切りがあると、遠江は三河と国境を接する最前線となります。そこで、徳川の侵入を防ぐためにも天然の要害となりえる堀川城、そして刑部城が築城されたと言われます。




堀川城を築城したのは周辺を治めていた斎藤為義等と言われますが、直虎でも活躍中の豪商瀬戸方久が今川氏真の歓心を得るために資金の提供をしたとも、また、その功績により城主を務めたとも言われていました。直虎でも「積極的」に関与はしていますね。



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ただ、実際は資金提供等は行っていたかもしれませんが瀬戸方久は城主ではなかったようです。おんな城主直虎でも出てきましたが、堀川城を守っていた諸将の中心人物は尾藤主膳(演:朝倉伸二)、山村修理(演:相島一之)そしてもう一人、新田友作という武将がいたのですが、この新田友作は後に出家して「法休」と名乗ったため、混同したのではと言われます。機を見るに敏で「銭の犬」方久は家康からしっかりと安堵状も獲得しています。

堀川城の戦い

「泣かぬなら、鳴くまで待とう時鳥」

後の徳川家康の印象とは掛離れた凄惨な戦い。それが、この「堀川城の戦い」です。

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要害であるからこそ

永禄11年(1568年)に徳川家康は岡崎から遠江へと侵攻しまずは刑部城を陥落させます。今川方は直虎でも元々堀川城へ入る予定だったと描かれた忠臣大沢基胤はこれに徹底的に抵抗。大沢氏と連携した土豪の新田友作らは農民兵を中心に堀川城に籠ります。
(彼は後に堀川城落城を逃れ隠棲し法休と名乗ったので方久と間違えられたと言われます。

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龍雲丸が言った通り「天然の要害」堀川城。
徳川勢の攻撃を満潮のおかげもあり撃退することに成功します。しかし、干潮時に再度犠牲をものともしない徳川勢の攻勢の前に城兵(農民等が殆ど)の約半数が討死。ついに堀川城は落城します。




戦闘で立て籠もった城兵も半数が討死したと言われますが落城後も悲劇は続きます。生き残った城兵や城に逃げ込んだ女子子供を含む約700人を都田川の堤で全員首を刎ねています。三河物語(大久保彦左衛門著)にはその凄惨な様子が伝えられています。




堀川城が陥落した後、徳川に降っていた井伊谷三人衆堀江城攻めも開始。堀江城主大沢基胤はのち降伏しています。また、方久と間違えられたと思わる堀川城城主の新田友作は落城を逃れ「法休」と名乗り、堀川城の戦で命を落とした人々の菩提を弔っていましたが、10年後に徳川方に捕らえられ処刑されています。

武田信玄と徳川家康

実際にはどのような想いでそれ程凄惨は作戦を実施したのかは分かりませんが、個人的には存命中は家康を苦しめた武田信玄との共通点を思わずにはいられません。




晴信は名君として世に知られていますが、決して慈悲深い武将という訳ではありません。晴信が堀川城を攻めた家康と同じ位の年齢(26歳前後)の時に佐久群で行われた「小田井原の戦い」では、降伏した城兵の首を悉く刎ねています。



「荀子曰く人の性は悪なり」


家康はいったいどのような想いでいたのでしょうか。以上、堀川城と井伊家の関係とは堀川城の戦いについてでございました。

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