寿桂尼と言えば直虎でも義元の母として圧倒的な存在感を示していますね。私は岸田今日子さんの寿桂尼が好きだったのですが、浅丘ルリ子さんも中々でございます。個人的には「優しさ」が隠せないのがいいなと思っています。

直虎と武田信玄での寿桂尼

今回のおんな城主直虎に限らないのですが、大河ドラマで描かれる寿桂尼の印象は、義元とはけっこうべったりな感じ(ただし、賢母として)ではないかと思います。仲良しだけど過保護ではないといった感じでしょうか。淀殿と秀頼や日野富子と義尚とは異なる感じですね。

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※関連記事:佐名とその夫。関口氏経との関係など
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武田信玄での「寿桂尼・義元」

私が大好きな1988年の「武田信玄」では岸田今日子さん演じる寿桂尼と、中村勘九郎さん演じる義元はとてもよい親子関係でした。寿桂尼は色々と義元に意見を出すのですが、義元はそれをただ受け入れるのではなく、一度受け止めて、意にそわない時は巧くいなしてとっいったように、あくまで、最終的な判断はしっかりと自分でやっている。




そして、母親である寿桂尼を勿論、尊重しています。一度、信虎が寿桂尼にを「糞ばばあ!」と罵る場面があったのですが、その時の義元の表情の冷たさ。



「信虎・・・下がれ」



さっきまでは、「信虎殿」って笑顔だったんですけどね。大抵の事は少なくとも表面上は「黒い歯」を見せて笑顔でいなすけど、母を侮辱されては黙っていられない感じでした。まあ、信虎殿はアル中でかかなりヤバい人という設定でしたが・・・。

直虎での「寿桂尼・義元」

直虎での義元と寿桂尼は「武田信玄」の二人とは雰囲気は違いますが、堅い信頼関係で結ばれている雰囲気は同じですね。第9話の「桶狭間に死す」にて、義元は亡くなってしまっていますので、一緒にいる場面は少なかったですが、第3話「おとわ危機一髪」での場面は印象的でした。



「寿桂尼の意見」


を尊重して、おとわに褒美(出家を許す)を与える。今川家において重きをなしているのが充分伝わってきました。



一糸乱れぬ今川の統治
→直虎感想3話「おとわ危機一髪」より。

※太原雪斎殿ナレ死もなく・・・!
→直虎感想第8話「赤ちゃんはまだか」より。



直虎での感想でも書いたのですけど、もう少し、「全盛期」の今川家を見ていたかった気もします。ちょっと残念だったのは、寿桂尼・義元と同じように今川家を語るのに絶対的に必要な、太原雪斎殿の出番が少なすぎたこと・・・。折角佐野史郎さんだったので、南渓との関係も含めて深堀ほしかったなと思います。

寿桂尼の実像

描かれ方は各大河の雰囲気で少々変わっているにしても、義元と寿桂尼は一蓮托生・一心同体・一卵性親子・・・。と、いう感じなのですが、実態はそうでもない!?という説が最近はあるようです。

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寿桂尼の出自と前半生

少し調べて頂くとすぐ解りますが、寿桂尼は中御門家(なかのみかどけ)は出身。名家の家格を有する藤原北家勧修寺流のお家柄です。姉は多くの戦国大名との交流で有名で戦国大河にも度々登場すす「山科言継」の父山科言綱です。生年は不明ですが、1513年には嫡男の今川氏輝を出産しているので、1490年代位ではないかと思われます。




一般的には氏親に嫁いだ後、夫の氏親、そして実の息子氏輝、義元、さらには孫の氏真の四代に渡り、今川氏の政務を補佐したと言われています。




確かに、「おんな城主直虎」でも「徳政令発布攻防」の鍵となる「今川仮名目録」の編纂に携わったと言われ、また、氏親死去後、嫡男氏輝が家督を相続した時はまだ14歳と少々年齢が若かった事もあり、その後、暫くは自身のの印判を用いて公的文書を発給しています。




つまり、少なくとも「氏親没~氏輝家督相続(1526年~1528年)」のあたりまでは名実ともに「尼御台」だったと思われます。

義元とは敵対していた!?

今川氏親には寿桂尼とは別腹の「玄広恵探」という息子がおり、正室、寿桂尼の子である「梅岳承芳(後の義元)」は花倉の乱で家督を争い、最終的には寿桂尼と太原雪斎の補佐を受けて梅岳承芳が勝利します。この時、当主今川氏輝と、義元と同じく寿桂尼を母とする兄の彦五郎も同日に亡くなったため混乱が大きかったと伝わります。



※甲斐国にとって天祐。氏輝・彦五郎相次いでみまかる。
→武田信玄第1話「父と子」より。



※今川家略図



ただ、昨今は義元と太原雪斎、そして寿桂尼の関係は必ずしも、三位一体ではなかった?とも言われているそうです。もしかすると、実の息子である梅岳承芳ではなく玄広恵探と「同心」していたのではという説もあり、記録も残っているそうです。




寿桂尼は京都の中御門家の出身ですから、当然京都には実家、さらには姉の実家と人脈があり、今川家の外交を担いうる立場にあります。ただ、義元の養育係である太原雪斎は京都五山の建仁寺で修業を重ねた僧であり、若い頃から「秀才」として周囲の耳目を集めていました。




その名声から義元の父氏親は義元の養育係を任せたと言われます。2人も京都滞在が長いため当然、京都には独自の、しかもトップクラスの摂関家とも人脈を築いています。



そのため、「義元・雪斎」が今川家政の中心となると、当然、寿桂尼の独壇場だった京都人脈の価値も下がらざる得ません。義元が家督を相続して以降は寿桂尼が政務に携わった記録は残っていないそうです。

寿桂尼の心情

私も寿桂尼が「玄広恵探」を支持し「義元-雪斎ライン」と対立していた、あるいはしそうだった可能性は充分にあると思います。ただ、「対立」といっても、義元を殺そうとしていたという事ではありません。家督を相続しない事で「守ろうとしていた」という可能性があるんじゃないかと思うのです。




花倉の乱で「玄広恵探」側に与していたのは福島(クシマ)氏です。その中心人物は福島正成。後に、「地黄八幡」の旗印の元、北条家随一の闘将と言われる北条綱成の父と言われる人物です。当時は戦国時代であり、文字通り、「命がけ」の戦いとなります。




有力家臣であり、その武力で今川家を支えてきた福島氏と戦い、もし敗北するような事になれば、息子の命はありません。また、もし「勝利」して家督を相続する事が出来ても、内戦で疲弊する事になれば、戦好きの甲斐の武田信虎、縁戚でもある相模の北条氏綱の介入を招き、結果的に今川家が滅ぶ可能性もあります。




外見的には「裏切り」に見えても、実は、そうではく、むしろ家と家族を守る事が動機という可能性もあると思います。そう考えると「おんな城主直虎」の小野和泉守や政次の心情を思いだしますね。




結果的には無事、義元は家督を相続すると、その才覚を如何なく発揮して「海道一の弓取り」と言われるまでの大国となります。そんな義元を見て「私の出る幕はもうない」と安心していたのかもしれないと思います。




大河ドラマ武田信玄では、今川家が滅びるまで存命しているように描かれていましたが、寿桂尼は戦国大名としての今川家が滅びる直前に亡くなり、



「今川の守護たらん」



という希望により駿府城の東北にある竜雲寺に埋葬されます。




寿桂尼が賢い方だったのは間違いないと思いますので、もはや武田信玄の勢いを止める事は出来ない現状を理解していたと思います。


「今川の守護たらん」



どのような心境で亡くなったのでしょうか。
「おんな城主直虎」ではその辺りも注目して見ていきたいと思います。

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