おんな城主直虎15話「桶狭間に死す」で今川義元が命を落としますね。その8年後に足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たし、また、武田信玄も足利義昭の要請を受けて1572年上洛を目指しています。結果的に信玄は上洛を果たせずに没しますが、信長は2度目の上洛以降は事実上天下人となっています。さて、今川義元殿が上洛を果たしたら天下人になったでしょうか?

上洛は珍しい事ではない?

上洛が特別な意味を持つようになったのは、応仁の乱(1467年)後の事ですね。例えば、応仁の乱の主役である山名宗全(持豊)や細川勝元は勿論、畠山義就、政長など、関わった多くの有力大名は在京しており、むしろ、都を去る(都落ち)と負けみたいな感じでした。この辺りは、大河ドラマ「花の乱(1994年)」に詳しいですね。私の個人的なイメージですが、応仁の乱までは「平安時代後期」の室町幕府版みたいな感じだったと思います。

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応仁の乱後の上洛

応仁の乱は一応、両雄の死(山名宗全と細川勝元)を持って終わりますが争いの種は沢山あります。多くが、将軍家を含む家督相続のもつれですね。畿内周辺の有力大名がが上洛と撤退(破れて都落ちの場合もあり)を繰り返します。それ程大きな勢力を持たなくても「近い」ので結構簡単に上洛(ただ、負けるのも早い)します。朝倉(越前守護)、六角(近江近江守護)細川(摂津守護)、三好(摂津守護代)などなど。その度に、足利将軍レベルでの政権交代、管領レベルでの政権交代などが繰り返されています。




そうした中で足利将軍家の権力が有名無実化すると、「将軍」の首のすげ替えを管領家つまり、「幕府の有力者」が行うようになり、さらに、その後になると「管領家」の首のすげ替えを「幕閣に参加していない」守護が行うようになり、最終的には信長以前ですと、守護ですらない「守護代」の三好家が、事実上の天下人ととして、足利将軍家も細川をはじめとする管領家も牛耳ってしまいます。その三好家の当主が三好長慶です。

義元が上洛したら

そして、義元が上洛をしようとしていた1560年は未だ、三好長慶が存命中で勢力が強かった頃ですね。三好長慶の勢力圏は根拠地の阿波をはじめ、淡路、摂津、和泉、河内、大和、播磨、丹波、若狭、伊予、讃岐、など、11か国に上ったと言われていますね。これ、応仁の乱時の一方の主役、山名宗全と同じ「六分の一殿」状態です。

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三好政権は実質を伴っていない?

ただ、「名目上」は領国化していたとしても、実態が伴っているのか?という疑問は確かにあると思います。今川義元は確かに、「駿河」「遠江」「三河」の3カ国の太守ではありますが、少なくとも、義元存命中に関しては「実態」がある支配でしたからね。




私は結論から言えば「ある程度」は実態があったというのが実態ではないかと思います。もっと言えば、当時の今川家の勢力を軽く凌駕する力は三好氏にはあったと思います。桶狭間から2年後に畿内地方では戦国最大の戦い「教興寺の戦い」が行われています。この戦で三好長慶が動員出来た兵力は5万~6万(相手もそれに近い勢力)と言われており三好家の勢いが見て取れますね。その三好家相手にたった25,000で戦えるのでしょうか・・・?

義元が上洛したら

私は三好政権を退けて、足利幕府にとって代わるつもりはなかったと思います。やはり足利幕府の再建が義元の目的だったと思います。太原雪斎、そして母の寿桂尼など、京都の情勢に詳しい義元が、当時の京都周辺の事情を知らない訳がありませんからね。




三好の勢力が強い。大いに結構。それは取りも直さず、足利将軍家のための力ですからね。




では、上洛したらどうなったでしょう??個人的には「大内義興の上洛」に近い感じになったのではと思います。大内義興は陶晴賢に滅ぼされる大内義隆の父です。先ほど、畿内周辺の大名は上洛したり、都落ちしたりするペースが早いと言いましたが、この大内義興は10年近く都で頑張ります。最終的には尼子経久等の勢力が本領を脅かすため、帰国しますが、10年頑張ったのは稀有だと思うんですよね。
(1997年の大河ドラマ毛利元就では細川俊之さんが演じていました。)




そして、結果的には戦国時代がもう少し長引いたのではないかと思いますね。


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※扇子だけ亡くなった義元殿の存在感。
→直虎感想第9話「桶狭間に死す」より。

→直虎第9話感想「桶狭間に死す」はこちら。