庵原朝昌(いはらあさまさ)。直虎との面会では高い評価でした。おんな城主直虎では義に厚い爽やかな好青年として描かれていますが、実際はかなりの苦労人?でもあります。新野左馬助の三姉妹の三女桜が嫁いでいますが・・・。桜もきっと苦労をしたと思います。庵原朝昌の今川家滅亡後について。

庵原朝昌とは?

朝昌自身の出自は判然としない部分も多いのですが、直虎でも描かれていたように、庵原氏の一族であり、また新野左馬助の娘を娶ったのは間違いないようです。

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庵原氏について

おんな城主直虎でも、直虎は新野左馬助の忘れ形見であり三女の桜の嫁ぎ先として相応しいか確かめるべく面会をする際に、庵原家は今川家を軍事・政治で支えた「太原雪斎」の出身の家でもありまた、遡れば藤原家に繋がる名門と描かれていましたね。




庵原氏(いはらし)は出自には色々と説がある(1世紀頃に日本武尊の東征で駿河を与えられたなど)ようなのですが、平安時代に平将門の乱を鎮めるべく藤原秀郷が将門を討ち、以降その後裔が駿河国庵原に土着し庵原氏を名乗ったと言われます。




直虎や真田丸では真田家や井伊家は「国衆」(教科書的には国人)として描かれ、今川家やそれに繋がる一族とは別個のようにも感じてしまいますが、立場的には(扱われた方の軽重こそあれ)国衆と言っていいのではないかと思います。




龍雲丸の言葉を借りれば「先祖が盗人」という事には変わりないですが、庵原家は井伊家よりは上手く立回ったようですね。

るろうに朝昌

おんな城主直虎では直虎と面会をした際の「義に厚い男」っぷりが印象的でした。考え方は直虎とは異なるものの、筋の通った好青年でしたね。しかし、その御性格からか、後に色々とご苦労をされるようです。

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今川が滅び、武田が滅び・・・

武田信玄の駿河侵攻に際しては多くの今川家臣は武田信玄の調略により次々と寝返り、軍勢を統制する事さえ危うい状況でした。




直虎もそうですが、関口氏経等の今川家中では要職にあった諸将も今川を見限ります。数少ない今川方として奮戦した武将と言えば、朝比奈泰朝が有名ですね。彼は自分の城に氏真を招いて大名としての今川家が滅びる瞬間に立ち当っています。また、大沢基胤も最後は徳川方に下りますが、その直前まで奮戦し、降伏に関しても氏真に許可を求めたと言います。



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では、庵原朝昌はどうだったのでしょうか。おんな城主直虎第24話では、直虎に忠義を尽くす覚悟を問われ、



「忠義を尽くす覚悟はございます。」

「最後まで忠義を尽くした者こそ敵にすら惜しいと思ってもらえる。」



と、いった趣旨の事を言っています。
庵原朝昌はその言葉通り武田信玄の駿河侵攻に際しては調略に応じるのはよしとせず最後まで抵抗し、その結果、敵であった武田信玄も「惜しい」と思ったのでしょう。大名としての今川家が滅んだ後は武田信玄に仕えています。

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しかし、庵原朝昌の受難は続きます。




武田家はその後、織田・徳川と鋭く対立。特に徳川は滅亡寸前(三方ヶ原等)まで追い込まれますが、信玄の死、そして長篠の戦の敗戦以降は織田徳川に対して守勢に回る事が多くなり、天正10年(1582年)ついに信長の甲州征伐で滅亡してしまいます。




皮肉にも、義元を桶狭間で失った今川がその後約10年滅亡したように武田もまた、信玄の死後約10年で滅亡。




以前、直虎の感想でも書きましたが、同じように「偉大な父」を失いながらも家を守り切れなかった氏真と勝頼では後世の印象が随分異なるのは不公平な気がします。

井伊家から佐々へ

武田家が滅亡した後は羽柴秀吉の初期からの家臣戸田勝隆に仕えますが、津田信成(信長の従兄弟とは別人)の仲介でついに井伊家に仕える事になります。




この頃は既に直虎(1582年没)は亡くなっていますが・・・。元々、妻が新野佐馬助(直虎の叔父)の娘といった縁もあったと思います。しかし、この朝昌と井伊直政は折り合いが悪かったようです。真っ直ぐな性格からなのでしょうか?見事にぶつかって井伊家を出奔してしまいます。




武田家が滅んだのが1582年、そして、後に仕える事になるのは「さらさ越え」で有名な佐々成政の家臣水野勝成なのですが、佐々成政は1588年に肥後国人一揆等の内政の不手際のため秀吉に自刃を命じられています。一時期は戸田勝隆に仕えていた事も鑑みると、仕えていたのは3~4年位だったのではないでしょうか。




ただ、この井伊直政の元を出奔してから仕えた水野勝成との出会いのエピソードが中々趣きがあります。




庵原朝昌は門兵としてとある武家に仕えていたところ、水野勝成はその武具が雑兵であるにしては立派過ぎる事を訝り問い詰めます。朝昌は自分は元は徳川傘下の井伊直政の家臣であると言うと、勝成は自らの地行の1/5与えて召し抱えたと言います。・・・戦国時代も見た目は重要だったのかもしれませんね。




因みに、この水野勝成の父は家康の叔父にあたり(家康母の兄弟)、徳川家中では重きをなす人物です。勝成自身はかなりの荒武者で、本能寺の変後の旧武田領の混乱(天正壬午の乱)や小牧長久手では井伊直政と武功を争うほどの活躍を見せますが、その戦い方を父に咎められ衝突。出奔しています。




親子と主従では勿論異なりますが、自分の意思を曲げずに「出奔」する辺りは、勝成自身、自らの境遇と重ね合わせたのかもしれません。

朝昌の旅の終わり

朝昌としては生涯の主君に巡り合えた思ったのもつかの間、肥後国人一揆では鎮圧に活躍するものの、主君の主君である佐々成政は前述の通り自刃してしまいます。肥後の内政の不手際もあったと思いますが、内心秀吉には忸怩たる想いがあったのではとか想像してしまいます。

朝昌帰る

その後、朝昌の主君である水野勝成は成政の後任となった小西行長、軍師官兵衛こと黒田孝高、立花宗茂等、九州の名だたる大大名に短期間で仕えては出奔を繰り返し、その先々で武功をたてます。




朝昌もきっとここには帯同していたのではないかなと思います。ただ、九州も落ち着いてくると勝成は再び出奔し「るろうに勝成」となってしまいます。おそらく、この頃に配下の朝昌を再び井伊の元へ戻れるように動いたのではないかなと思います。「るろうに」では家臣は雇えませんからね。因みに、勝成自身も関ヶ原の前年には父と和解し徳川幕下に帰参しています。




帰参の後は、お互いに大人になったのでしょうか?少なくとも表立っては対立する事なく直政の家臣として活躍します。




最後の晴れ舞台は大坂の陣でしょうね。大阪夏の陣では豊臣軍の大将の1人木村重成を討取っています。ただ、この時朝昌自身も一軍を任される大将だったため、「槍働きの手柄」は安藤重勝に譲ったと言われます。朝昌はこの活躍が評価され、4000石を領する井伊家家老となり、井伊家と共に幕末までその家を保つことになります。

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