大河ドラマおんな城主直虎で登場する「瀬戸方久」は実在する?井伊家と支えたと言われる瀬戸方久と徳政令、「何故直虎は瀬戸方久を守ろうとしたのか?」戦国時代の商人について。

瀬戸方久は実在する?

おんな城主直虎第4話で、一宿一飯を提供しておとわを井伊家に連れて行った(おとわはお怒りでしたが・・・)にも関わらず、誘拐犯と間違われて、危うく命を落とすところだった小汚い男。この男が後の瀬戸方久です。

→無料視聴可能な大河!2022年1月22日更新

瀬戸方久はいつ頃存在?

瀬戸方久は遠江の引佐郡祝田村の周辺で生活し、弘治年間(1555年-1558年)には名前にある「瀬戸村」を与えられて、井伊家の庇護を受けながら伸長したと思われます。




瀬戸方久少なくとも1556年には直虎の父直盛が、祝田村の年貢の減免に関して発給している文書に、年貢を納めた記録が残っている事から、「第5話の亀之丞が帰る」の頃にはある程度商売が軌道に乗っていたと思われます。




永禄9年(1566年)に直虎が福満寺「鐘」を奉納しているのですが、その文書にも瀬戸方九(正確には瀬戸四郎右衛門名義)の名前があり、その頃にはある程度井伊家領内でも有力な豪商に成長していたと思われます。




女城主直虎でも描かれいますが、井伊家は桶狭間以降の度重なる戦、戦で財政は逼迫していたと思われます。また、当時の軍隊は一部(織田家等)を除いて、「国民皆兵」ならぬ「領民皆兵」。戦が続けば「働き手」を取られてしまい、領民も田畑を耕す事が出来ず、借金をして年貢を納めなれければなりませんでした。




借金の担保に最も「信用力」があるのはやはり土地ですね。農民達は借金が返済出来ないので土地を手放します。勿論、「商人」は農業はしませんから、その土地の領民をある意味「安価な労働力」として使用、そして、商人はその資本を今度は井伊家のような領主、さらには大名に貸付ます。益々商人は儲かるという仕組ですね。




御多分に漏れず、井伊家も瀬戸方久から借金をしています。ついに井伊家も返済が滞り、その対価として「土地」を与えられ、家臣に名を連ねるようになったと言われています。

瀬戸方久と徳政令

徳政令とは、一言で言えば「借金帳消し」です。「・・・いいなぁ・・・」と、思いますよね。因みに、戦国期は「徳政令」ですが、現在でも形を変えて行われていますね。今風に言えば「債権放棄」とかでしょうか??




井伊直虎は領民が訴え、氏真が命じた「徳政令」を言を左右に中々実施しませんでした。その理由には瀬戸方久のような「金貸し」を保護する目的があったと言われています。




一方で、徳政令実施を盛んに煽ったのが小野但馬守政次です。政次が徳政令に積極的だったのは、労働者側に立ち、アコギな商売を展開して、農民たちを苦しめる瀬戸方久から領民を助けるため・・・では勿論ありません。




井伊家がなんとかやって行けているのは瀬戸方久からの援助(借金)があればおこそ。そして、もし「農民の借金が帳消し」になってしまえば・・・。瀬戸方久も生き残るためには「井伊家への取り立てを厳しくする」事にもなりかねませんし、また、瀬戸方久が潰れてしまえば、資本を獲得する事が出来なくなります。瀬戸方久と井伊家は一連拓生なんですね。




おんな城主直虎では瀬戸方久のカウンターパートに「祝田禰宜」がいます。こちらは「神職(仏に仕える方ではなくて神様に仕える方)」ですが、ご商売にも積極的です。新興勢力である瀬戸方久井伊家に取り入り伸長しているとい事は古くからいる祝田禰宜には面白くありません。



やや、単純化し過ぎの感もありますが、



井伊直虎・瀬戸方久連合
VS
小野政次・祝田禰宜

 


の争いと見る事も出来ますね。
そして、その勝敗のカギを握るのは「今川家」という事になるのでしょう。




ただ、瀬戸方久は「商人」です。井伊家と共倒れになる事を避けるために今川氏真とも交渉をしています。徳政令とは今風に言えば「債権放棄」だと言いましたが、必ずしも「全て」の借金を棒引きにしなければいけなという、訳でではありません。今も巨大企業が「御上の管理」となると、どの銀行が何処まで放棄するか、交渉したりする事がありますが、それと同じです。




井伊直虎が徳政令発布を遅らせている間に瀬戸方久自分が担保として入手してきた土地に関しては、徳政令が及ばないように氏真に配慮をしてもらえるように交渉します。結果的に、瀬戸方久は「安堵状」という形で家屋敷、農地等の不動産10箇所の所有を保証されます。ただ、この交渉も、井伊直虎の「時間稼ぎがあった」からこそですね。安堵状を得た後、流石に今川の圧力に抗しきれなくなった直虎は徳政令に署名します。




瀬戸方久は生き残ったものの、これで、井伊谷への今川支配は決定的となってしまいます。




時に、永禄11年(1568年)。




そう。この頃、今川家は最大にして、「最期」の危機を迎えます。甲駿同盟が破棄され、戦国最強と謳われる武田信玄率いる軍勢が駿河を窺っていたのです。

商人と戦国大名の関係

瀬戸方久は素浪人同然の身分から商いで身を立てて、井伊谷では有力な豪商となっています。しかし、商人から身を起し、「商人」に留まらず、大名となった武将も多いですね。

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商人から身を立てた大名

商人出身の戦国大名と言えば、まず第一に思い浮かぶのは斎藤道三ではないでしょうか。最近の研究では先祖は「北面武士(都の警備をする武士)」とも言われていますが、油売りをして、頭角を現していたのは間違いないようです。




また、斎藤道三と同じく日本三大梟雄と言われる松永久秀も同じく商人出身であったと言われますし、もう少し時代が下れば小西行長も堺の商人出身で、その才覚を宇喜多直家に見いだされ、秀吉に仕え20万石を超える大名にまでなっています。

戦国と相性がいい「商人」

瀬戸方久も直虎で「戦の情報でも儲けた」と語っていますが当時は「戦国時代」です。戦にはお金がかかりますね。槍、鉄砲、弓刀、兵糧、馬、人足・・・。城や櫓の準備が必要なら「木材」「大工」まで必要になります。「戦」の情報は商売のネタなのだと思います。ネットはおろか、新聞も雑誌も瓦版もない時代、情報は自分で歩くか、多くの人に来てもらうしかありません。




「土地に縛られず」諸国を行商する、あるいは多くの人と接して者を売る商人には必然的に情報が集まります。瀬戸方久を始め商人出身であれば多くの人と接して「今何処が熱いか?」が分かると思います。瀬戸方久は戦国大名にはなりませんでしたが、タイミングによっては「大名」になっていたかもしれません。



いつの時代も「情報」を得ているものが、物事を有利に進める事で出来るようです。



その「情報強者」商人の対局に位置するのは「農民」なのではないかなと思います。彼らは「土地」に縛られており新しい情報に接する機会がやはり少ない。



因みに、後の天下人羽柴秀吉は出身こそ百姓なのかもしれませんが、信長に仕える前は「針売り」として諸国を巡っていた時期があったと言われています。その活動範囲が遠江と言われており、信長に仕える前には、今川家家臣の飯尾連龍配下の松下之綱に仕えていたとも言われています。




・・・もしかしたらおんな城主直虎でも、瀬戸方久のような感じで「若き猿」が出てくるかな・・・?と思っていましたが、どうやら登場は先になるようですね。

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